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ツバメ
2018年05月21日 (月) | 編集 |
日本では、ツバメの季節になりました。
柑橘類の花も良い香りを漂わせ、ジャスミンも良い香り♪
空には、ツバメが枚飛ぶ姿がちらほらと。
ほんと、いい季節ですよね~。

私はツバメを見ると、子どもの頃の教科書に載っていた、
大好きな詩を思い出すのです。
きっと、皆さんもご存じの詩だと思います。

そう、詩人の丸山薫さんの作品で「北の春」という詩です。
大学時代、どうしてもまた読みたくなって、大学の図書館で探した覚えがあります。
すっかり忘れてしまった方もおられるかと思いますので、
今日はその詩をご紹介したいと思います。

****************************

 『北の春』   丸山 薫



どうだろう

この沢鳴りの音は

山々の雪をあつめて

轟轟(ごうごう)と谷にあふれて流れくだる

この凄(すさ)まじい水音は



緩(ゆる)みかけた雪の下から

一つ一つの枝がはね起きる

それらは固い芽の球をつけ

不敵な鞭(むち)のように

人の額(ひたい)を打つ



やがて 山裾の林はうっすらと

緑いろに色付くだろう

その中に 早くも

辛夷(こぶし)の白い花もひらくだろう



朝早く 授業の始めに

一人の女の子が手を挙げた



ーー先生 燕(つばめ)がきました

****************************

初めてこの詩を読んだ時、私にははっきりとその映像が浮かんだのです。
そしてその映像は、今になっても変わりません。
まだ雪が残る山々が見える木造の学校の教室で、子どもたちが授業を受けいてる。
凛とした寒さが残りながらも、春の息吹が感じられる雪解けの季節。
空は澄んだ青空。澄み渡る冷えた空気。
子どもたちは授業に集中しつつも、春がやってくる喜びに心躍る気持ちが湧いている。
そんなとき、窓際の席に座っているリンゴほっぺのおかっぱ頭の女の子が、
窓の外をふと眺めると、1匹のツバメが飛んでいるのを見つける。
感激した女の子は、黙っていることが耐えられずつい、先生やみんなにも教えたくなり、
パッと手を挙げて、「先生、燕が来ました!」と伝えるのです。

私のイメージは、今書いたような感じなのですが、皆さんはどうなのでしょうね。
なんて清々しい詩なんだろうと感動して、今でも大好きな詩の1つとなっています。
花の王国でもあり、また鳥の王国でもあるオランダで、
私は残念ながらツバメを見た記憶はありません。
でもオランダ語で、Boerenzwaluw というようですので、きっといたんでしょうね。
私がオランダにいた頃大好きだった春の鳥は、クロウタドリ。
オランダ語では Mere といいますよね。
日本の春は、鶯の鳴き声が定番ですが、オランダ…というかヨーロッパでは、
クロウタドリのさえずり(ほとんど「歌」と言ってもいいほど上手い!)ではないでしょうか。
オランダでの初めての春、初めて聴くクロウタドリのさえずりに、
私は毎朝「すごくお上手!素敵♪」と叫びながら、
何度も拍手を送っていたことを思い出します。(笑)





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影があるから光が見える
2018年05月15日 (火) | 編集 |
さて今日は、曽野綾子さんのご著書のご紹介、最終回です。
今日のテーマは「光」」。
では、早速ご覧下さいませ~。

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◆影があるから光が見える
どれほど幸せを感じるかは、その人の才能だと思います。
今日も元気で、おまんまが食べられれば幸せとか、
愛する妻子がいてくれるだけで幸せとか、
狭い家でもコタツがあって、そこでみんなでミカンを食べられたら幸せとか、
つつましさがないと幸せを感じるのは難しいでしょうね。
同じ状況でも、「コタツでミカンを食うのは貧乏ったらしい」などと思ったら、
幸せどころではなくなりますからね。
たぶん、幸せを感じる才能は生来あるものではなくて、
開発していくものなんでしょう。
自分自身で鍛えていくわけですね。
周囲をよく見れば、自分より幸せそうに見える人もいるけれど、
自分より不幸そうに見える人もいる。
それを思って、自分が得ている幸せを感謝する。
病気の人を見たら、自分が健康であることを
ありがたく思わずにはいられないでしょう。
~~~
闇がなければ、光がわからない。
人生も、それと同じかもしれません。
幸福というものは、なかなか実態がわからないけれど、
不幸がわかると、幸福がわかるでしょう。
だから不幸というのも、決して悪いものではないんですね。
荒っぽい言い方ですが、幸福を感じる能力は、不幸のなかでしか養われない。
運命や絶望をしっかりと見据えないと、
希望というものの本質も輝きもわからないのだろうと思います。
もちろん、不幸はできるだけ避けたいし、
病気や貧困はすべて解決する方向へ努力すべきです。
しかし、人間は幸福からも不幸からも学ぶことができるんですね。
病気、失恋、受験に失敗すること、勤め先の倒産、親との死別、離婚、
親しい人から激しい裏切りにあうこと……などを耐え抜いた人というのは、
必ず強く深くなっています。
そして、望ましくなかった経験がむしろ個性となって、
その人を静かに輝かせているものです。
日本人が満ち足りていながら、豊かさを感じられないのは、
たぶん絶望や不幸の認識と勉強が決定的に足りないからで、
世の中も、不幸というものの価値を徹底して認めないからです。
不幸はつまり、不平等と社会悪の現れだとしか思わない。
そんなもったいない話はないんですけどね。

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“幸せを感じる才能は生来あるものではなくて、 開発していくもの”
…という言葉に、とても共感しました。
どこかの国の誰かから見れば、羨ましい状態であるにもかかわらず、
自分が「幸せだ!」と感じられないのは、自分がまだ開発されていないから。
幸せを生きられる人って、幸せを感じる才能を開発した人なんですよね。

“不幸がわかると、幸福がわかる”
“幸福を感じる能力は、不幸のなかでしか養われない”
…というのも、また然り。
「余命○カ月です」などと、死の宣告を受けた人や、
事故などで体が不自由になった人など、
自分に襲いかかってきた不幸にめげてしまう人ばかりではなく、
不幸を味わったからこそ、その人の中から光るものが芽生えることも多い。
私も、「死」を直視したからこそ、毎日を本当に大切に生きられるようになり、
日常の何気ない幸せを、ものすごく大きな幸せと感じられるようになりました♪

“日本人が満ち足りていながら、豊かさを感じられないのは、
 たぶん絶望や不幸の認識と勉強が決定的に足りないからで、
 世の中も、不幸というものの価値を徹底して認めないからです”
とまとめておられましたが、確かに、社会が「不幸」を認めていないというのは、
実感しておられる方も多いと思います。
「不幸」=「あってはならないもの」という方程式が出来上がっていますが、
私は、その人その人に必要な不幸が、
必要なタイミングで与えられているのではないかと思うのです。
最中にあるときには、その不幸に押しつぶされそうになってしまいますが、
何とかそこを切り抜け、あとでその時を振り返った時、
その不幸があったからこそ、人としてグッと成長できたと感じることが多いのです。
つまり、「不幸」は、その人が人間としての成長を遂げるための関門というか。

皆さんは、どのように感じられましたでしょうか?




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「不幸」ではなく「悲しみ」を分け持つ
2018年05月09日 (水) | 編集 |
今日は「不幸」がテーマ。(笑)
さて、どんなお話しなのでしょうか。

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◆「不幸」ではなく「悲しみ」を分け持つ
不幸にもいろいろありますが、
自分の不幸を特別なものだと思わないようにすることは肝心です。
食べられないのがいちばん大変だとか、
お姑さんにいじめられることがこの世の最大の不幸だとか、
みんな、自分の不幸がこの上なく大きいものだと思うわけですね。
私に言わせると、それは悪い意味で女性的特性だと思いますが、
不幸というのは誰にでもあって、しかも比べられないものなんです。
もっとも、中にはほんとうに幸福とは遠かったのだろうと思う人もいました。
お目にかかったことはないのですが、時々手紙をくださる方がいて、
ご主人が口を開けば彼女のことをののしる冷たい人だそうです。
そして、一人息子さんが統合失調症だという。
普通なら、息子がそういう父親から母親をかばうのでしょうが、
それもないわけです。
ひょっとしたらご主人は、そういう息子さんに対して
いらだっているのかもしれないけれど、妻には優しい言葉一つかけず、
労りさえ見せず、息子さんは自分の殻に閉じこもっている。
だから、彼女は一人ぼっちだったんですね。
私はときどき、この方のことを考えていました。
うちは夫婦ゲンかもするけれど、
病気になれば、お互いに何が食べたいか聞きますし、
つらくないように労わる暮らしをしています。
それは人並みの幸福だと思いますが、
その方には人並みの幸福もないのかもしれない。
もしかしたら人並み以上の不幸を背負ってらっしゃるかな、と思いました。
でも、ほんとうのところはわからない、と思っているんです。
疑っているという意味ではありません。他人の不幸はわからない。
だから、わかったと思うな、ということです。
どんなに親しくしていても、その人の幸不幸というものは、
他者が読めないものだと思います。
だから私は、「相手の不幸がどういうものかわからないけれど、
悲しみは分け持ちましょう」というのが好きなんですね。
落ち込んでいる時に、ただ愚痴を聞いてあげたり、
一緒においしいものを食べに行ったりする。
人間というのは、一日遊ぶと、気分がずいぶん変わりますからね。
そうすると、明日はまた違った陽が差し込む。そんなものです。
私なんか、夜、ぐっすり寝たか寝ないかだけで、
翌日、ものの考え方が全然違ってきますから。

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本文中に、
“不幸というのは誰にでもあって、しかも比べられないもの”
“他人の不幸はわからない”
“どんなに親しくしていても、その人の幸不幸というものは、他者が読めない”
というところは、本当にその通りだな~と思いながら読みました。

自分が不幸の最中に置かれていると、そのことがすべてになってしまいます。
他人の不幸の方が大きいからといって、自分の不幸が軽くなるわけではなく、
つまり、曽野さんがおっしゃるように「比べられないもの」なわけです。
だから、その不幸から抜け出した後で、その頃のことを振り返ってみると、
「大したことなかったな」と思ったり、「あれは本当に大変だった」と思ったり、
その最中にいなくなって初めて、客観的に見られるようになるものでしょう。

また、不幸が比べられないものであるということは、
他人の不幸が理解できないということになります。
こちらが良かれと思ってかけた慰めのひと言が、
思いもよらず相手を傷つけてしまうこともあるでしょう。

自分が不幸の中にあるときに、寄り添ってくれる人がいるって有難いですね。
でも、本当の孤独をひとりきりで乗り越えられた人の強さも素晴らしい。
私は不幸に押しつぶされそうになることもこれまで何度もありましたが、
今はただ、その辺りに漂う花の香りに気づいたり、
美しい鳥の鳴き声で季節を感じたりできることに喜びを覚え、
自然の素晴らしさに感動しながら、日々の生活を送るようになりました。
(まあ、オランダにいた頃はそれが当たり前だったのですが、
 日本へ帰って来てからは、そうそう簡単に
 自然の素晴らしさを堪能できる環境では暮らせませんから…)
私にとって、自然の癒しのパワーは絶大です。




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みんなが右に行ったら、あえて左に行く
2018年05月03日 (木) | 編集 |
さて、今日から新しくご紹介するのはこちらの本。

久し振りに曽野綾子さんの本です。
随分前に読んだ1冊ですが、ご紹介したいと思います

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◆みんなが右に行ったら、あえて左に行く
まわりに合わせたがるというのは、一番卑屈な精神のように思えます。
人と同じ行動に走ることは、お祭り騒ぎに似た楽しさや、
流行に遅れなかったという安心感はあるでしょう。
しかし私には、付和雷同するという勇気のなさを示していて
もっとも魅力がないものに映ります。
もっと言えば、流行を追って自分もついでにいいことにありつこうとする
さもしい計算の結果にも見えて、私はそういう人とケンカもしないけれど、
ほんとうの親友にはなれませんでした。
~~~
人間は思いのほか、流行に動かされているものです。
しかし冷静に考えてみると、
「自分は、ほんとうはそんなことを望んでいなかったんだ」とわかってきたり、
逆に思いがけなくこういうことも好きだったのか、と自分を発見したりする。
世間の評判や人気に関係なく、その人がもっている才能や
性格にもっとも合った仕事を見つけないとダメなんですね。
自分が好きになって選んだ仕事を英語で「vocation」と言いますが、
それは「神さまがその人に命じた使命、天職」という意味でもあるんです。
他の人間が理解しようがしなかろうが、
神が自分にとって一番いい仕事をおあたえになったのだから、
それはすばらしいものだ、という認識があるわけです。
~~~
しかし、日本人は職業や就職の先を、自分が満たされるかどうかより、
他人がそれをどう思うかで決める場合が多いから、一向に満たされない。
常に時流に乗った会社を選ぶことは事実上できないんです。
またそういう精神では、常に不安がつきまとうのは当然でしょう。

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私は曽野綾子さんに強い傾倒を抱いたことはないのですが、
なんだがサバサバしている感じが小気味よく、
「私は私よ」と自分の足でしっかりと大地に立たれているのが、
素敵だな~と思って、これまでにも何冊か著書を読ませて頂いています。

私も曽野さんと同様、世間の流行に乗ることに何かしらの違和感を覚え、
いつもその逆をいくような生き方をしてきました。
周りからどう評価されるか…なんてことは、正直、どうでもよかったんです。
見た目で人を判断するような人は、こっちから願い下げよ!って感じです。(笑)
持つモノ、着るモノ、生き方全てにおいて、
自分が快適で、自分らしくいれば、私は満足感を得られるわけです。
それが流行に乗っていようがいまいが、周りの人たちがどう感じようか、
そんなこと、本当にどうでもいい。
自分軸で生きること、他人の物差しに振り回されない生き方こそ、
不安や後悔のない、満足できる生き方なのではないかと思います。

本文中に
“自分が好きになって選んだ仕事を英語で「vocation」と言いますが、
 それは「神さまがその人に命じた使命、天職」という意味でもあるんです”
とありましたが、「vocation」を生業に出来ている人って、きっと少ないと思うんです。
でも、「vocation」に巡り合えたなら、こんな幸運なことはない。
実は私、近年、この「vocation」に巡り合えたんです♪
「私はこのことを成し遂げるために、生まれてきたんだ」と確信できることに。
だから、残りの人生は「vocation」に捧げようと、日々努力を積み重ねています。




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愛国心とナショナリズム
2018年04月27日 (金) | 編集 |
海外で生活したことがおありの方は、
その国の国民が、自国を愛して誇りを持っているという現実を見て、
「あまりにも日本と違う…」と驚かれた経験をお持ちなのではないでしょうか。

オランダでも、祝日には国旗があらゆる所にはためき、
「愛してるよ~! オランダ~!!」という国民の気持ちが、
パッと見ただけで伝わってくるのが、とても気持ち良かったことを思い出します。

それに比べて、日本では「愛国アレルギー」とでもいいましょうが、
なんだか、自分の国を愛して誇りを持つことが異常なような、
時刻を毛嫌いする人の方が優れているかのような間違った感覚が、
「正しい」と大手を振って歩いているような気がして、違和感を持っています。

…ということで、今日は、「愛国心とナショナリズムの違い」について、
書かれている個所をご紹介したいと思います。

=============================

◎愛国心とナショナリズムはまったくの別物
著名な歴史学者ルカーチは『歴史学の将来』のなかで、
「ナショナリズムとは、劣等感と不義の関係を結んだ愛国心である」という
連合王国の外交官の名言を紹介しています。
愛国心は誰にでもあるごく自然な感情です。
自分の生まれた国、育った土地に愛着を抱く、
本源的と言ってもいい精神の働きです。
それは本来、自分が生まれた大切な場所をまもっていきたいという
防御的な心理のはずで、ほかのところをどうこうするものではありません。
ところが、「劣等感と不義の関係」を結ぶと、他者に対して攻撃的になります。
それがナショナリズムです。
したがって、愛国心とナショナリズムはまったく別のものだと考えるべきです。
(略)


第10章 自分の頭で考える生き方
◎「どうでもいい」と思うほうが職場や仕事にとってもプラス
私は企業のトップは「機能」だと考えています。
社長になったから、会長になったからといって、
別にその人の人格が向上したとか
人間的価値が増大したわけではありません。
出世とは、極論すれば、たんに「機能」が変わっただけなのです。
企業にはトップという「機能」が必要なので、
その「機能」をライフネット生命では
いまは私が担当しているというにすぎません。
課長や部長も同じことです。
組織のなかで課長や部長という「機能」を分担しているだけの話で、
決して人間的に偉いわけではないと得心しておく必要があります。
(略)
仕事や職場がすべてだと思っている人は、じつは、
仕事や職場に依存し従属しているにすぎないのです。
それでは人間としての視野が狭すぎます。
仕事や職場がすべてではないと気づく必要があります。
そう気づいて初めて、さまざまな教養にも目が向くというものではないでしょうか。
どうしても仕事がうまくいかなければ、
さっさと仕事を替えてしまうという選択肢もあります。
みんながみんな置かれた場所で咲く必要などどこにもないのです。

=============================

如何でしたでしょうか?
愛国心とナショナリズムの違いについて、わかりやすく説いて下さったように思います。

そして、後半部分。
会社勤めをしたことのない私が意見するのもなんですが、(汗)、
すごく共感できた内容でした。

私は昔から、人の「肩書」で、その人を偉いと判断することはありませんでした。
「医者なんだって~」「社長さんなんだって~」 = 「すごいね~」「偉いね~」
という単純な評価は、どうも違うと思っていましたし、今も思っています。
それはたまたまその人がその時点で、
どういった職業についているのかを表すものでしかなく、
その人が人として「すごい」か「えらいか」を判断できるものではないと思うからです。

人間の真価は、肩書ではありません。
社会的な肩書や他人からの評価によるものではなく、
その人の生き方、生き様、経験、知恵など、
その人自身が培ったもので決まるのではないでしょうか。

これにて、この本のご紹介は終了です。




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