日本人よ、自信を持て

2018/07/20 (金)  カテゴリー/本のご紹介

いよいよ、李登輝氏のご著書のご紹介も、
今回で最終回となります。
また少し長めですが、是非ご覧下さいませ。

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第十五章 武士道の感化
(略)
戦後の日本では、
いわゆる「平等主義」についての誤れる観念や解釈の影響からか、
とかく「エリート」や「選良」といった一頭地を抜いて傑出した者の存在に関して、
極めてネガティブで攻撃的ですらある論が
長い間大手を振ってまかり通ってきたようです。
いわゆる「悪平等主義」の横行ですが、その結果、
上から下まですべてが不道徳ないしは反道徳の典型のようになってしまった。
率先垂範するべき「貴き身分」(ノーブレス)の者がいなくなってしまったからです。
(略)
《過去の日本は武士の賜物である。
 彼らは国民の花たるのみでなく、またその根であった。
 あらゆる天の善き賜物は、彼らを通して流れでた。
 彼らは社会的に民衆により超然として構えたけれども、
 これに対して道義の標準を断て、自己の模範によってこれを指導した。
 私は、武士道に対内的および対外的教訓のありしことを認める。
 後者は社会の安寧幸福を求むる福利主義的であり、
 前者は徳のために徳を行うことを強調する純粋道徳であった》
(略)
《武士道は、その最初発生したる社会階級より多様の道を通りて流下し、
 大衆の間に酵母として作用し、全人民に対する道徳的標準を供給した。
 武士道は最初は選良の光栄として始まったが、
 時をふるにしたがい国民全般の渇仰および霊感となった。
 しかして平民は武士の道徳的高さにまでは達しえなかったけれども、
 「大和魂」は遂に島帝国の民族精神を表現するに至った。
 もし宗教なるものは、マシュー・アーノルドの定義したるごとく
 「情緒によって感動されたる道徳」に過ぎずとせば、
 武士道に勝りて宗教の列に加わるべき資格ある倫理体系は稀である。
 本居宣長が、
 敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂ふ 山桜花
 と詠じた時、彼は我が国民の無言の言をば表現したのである。
 (略)》
(略)


第十七章 武士道の将来道
(略)
新渡戸稲造先生は、日本でも最初の本格的な「国際人」でした。
そして、「国際連盟」をはじめとする国際社会における先生の活躍ぶりは、
世界中の注目を集め、高い評価と尊敬を受けていましたが、
そのような時代の最先端を行く先生が発表した『武士道』だったからこそ、
なおのことその意義は計り知れないくらい大きかったのです。
いまや人類社会は、好むと好まざるとにかかわらず、
「グローバライゼーション」(地球化)の時代に突入しており、
このような大情況の中では、ますます「私は何ものであるか?」という
アイデンティティーが重要なファクターとなってきます。
その意味においても、「武士道」という名の日本の根本精神は
ますます絶対必要不可欠な土台となってくると思うのです。

最後に、もう一度繰り返して申し上げておきたい。
日本人よ自信を持て、日本人よ「武士道」を忘れるな、と。

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日本人はどうしてか、「出る杭を打ってひっこめよう!」とします。
横並びでなければならないと思いこんでしまったのでしょうか。
「出る杭」は、それだけの時間や労力、またお金をかけて、努力をし続けて、
ようやく「出て」きているのだということを、正視できないのでしょうか。

まだ、『武士道』を読んだことがないという方は、是非一度読んでみて下さい。
現代語訳版もありますので、わかりにくいことはないと思います。
平成の世…と言っても、もう少しで終わりですが(笑)、
この時代に生きているとはいえ、私たちの根本には、
なんだか「武士道精神」がDNAとして入っているような気がしてなりません。

「私は何ものであるか?」
…という問いに対する答えを見つけようとしながら、生きていく。
そして、もしこの答えが見つかったなら、それを芯にして生きていく。

李登輝氏の熱い思いが込められたこちらの本のご紹介は、以上で終了です。




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餅は餅屋

2018/07/14 (土)  カテゴリー/本のご紹介

それでは、今回は予告通り、
前回の続き、後編をご紹介します。

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(略)
《(略)
 ――男女間の相対的なる社会的地位を比較すべき正確なる標準は何か。
 女子の地位を男子のそれと比較するに当たり、
 銀の価値を金の価値と比較するがごとくにして
 その比率を数字的に出すことが正しいか、それで足るか。
 かかる計算の方法は、人間のもつ最も重要なる種類の価値、
 すなわち内在的価値を考察の外に置くものである。
 男女おのおのその地上における使命を果たすために
 必要とせらるる視覚の種々多様なることを考えれば、
 両者の相対的地位を計るために用いられるべき尺度は
 複合的性質のものでなければならない。
 すなわち経済学の用語を借りれば、複本位でなければならない。
 武士道は、それ自身の本位を有した。それは両本位であった。
 すなわち、女子の評価をば戦場ならびに炉辺によって計ったのである。
 前者においては女子は甚だ軽く評価せられたが、後者においては完全であった。
 女子に与えられたる待遇は、この二重の評価に応じた。
 (略)》

日本の戦後教育の流れの中では、いわゆる「複線型教育」、
すなわちそれぞれの生徒の個性に応じて多種多様なコースを設けることですら、
「差別主義」だとか、「非民主的」だなどと批判する
一部勢力が強い影響力を持っていました。
(略)そして、クラス全体の子供が算数も理科も国語も、
みんな満遍なく平均点を取って「偏差値」を押し上げることだけに懸命になったのです。
それこそが「民主主義」だと思いこんできたからでしょう。
もちろん、「女子教育」に関しても、
「男と女は平等であるべきだ」などというドグマに支配されているから、
男女の役割の違いといったような本質的な「区別」さえも理解できぬまま、
何でもかんでも「差別」だと騒ぎ立てる傾向があるようです。
(略)
要するに「餅は餅屋」で良いのではないでしょうか。
新渡戸先生がこの『武士道』の中で言わんとしているのもまさにその一点だけであり、
決して「差別」を煽り立てているわけではありません。(略)
既に百年以上も前にこういう大切なことを言っていた人がいたというのに、
いったいどこで、戦後日本の教育は方向を取り違えてしまったのか、
私は本当に不思議でしようがありません。
いまこそ、「真に民主的で平等な教育とは何か?」という問題を
真剣に考えてみるべきではないでしょうか。
その有力な手がかりとして、
日本人には「武士道」という輝かしい民族の文化遺産があるのだ、
という誇りと自信を取り戻すべきではありませんか?
「吾人が差異と不平等との区別を学ばざる限り」
――つまり私たちが、区別と差別を混同しているようでは、
女性の地位と役割についていつまでも誤解は解けないということを、
新渡戸先生は既に百年以上も前に述べているのです。
「教育」というのは、結局、『武士道』にも出てくるように、
精神的な価値観や肉体的な価値観を尺度にして、
ただ単純に「平等」かどうかなどと論議するものではなく、
もっと深く個々の人間の性格や能力の差異(決して差別ではない)に着目して、
複合的かつ多面的に判断していくべきものではないか、と思います。
いたずらに平等、平等と騒ぐのは、かえって「悪平等」につながる危険性のほうが強い。
本当の「教育」とは、やはり一人一人の人間の内在的を重視して、
各人の特性を生かして行うべきものなのです。
(略)
もちろん、「政治改革」や「経済改革」なども大切ですが、
国家にとって何よりも大事なのは人間なのだから、
個性豊かな子供たちがつくる「多様な社会」をつくり上げていくためにも、
何と言っても「教育改革」がいちばん大切だと思います。
そして、そのさらに向こうには「心霊(精神)改革」がなければならないのです。
(略)

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前回の前編に引き続き、今回の後編をお読みになり、
皆さんはどのようにお感じになったでしょうか。

男と女は、体のつくりも体力も違うことが明白なのにもかかわらず、
それぞれ得意とする部分をより伸ばすことよりも、
男女の差がないように努力をする…というのも、
たしかに、ちょっと違うようにも感じます。
「差別」はせず、「区別」をすることが大切なのに、
いつの間にやら、「区別」=「差別」ってことになってしまったのでしょう。

李登輝氏がおっしゃっているように、
“「教育」というのは、精神的な価値観や肉体的な価値観を尺度にして、
 ただ単純に「平等」かどうかなどと論議するものではなく、
 もっと深く個々の人間の性格や能力の差異(決して差別ではない)に着目して、
 複合的かつ多面的に判断していくべき”
“本当の「教育」とは、やはり一人一人の人間の内在的を重視して、
 各人の特性を生かして行うべきもの”
だろうと思います。

多くの自然災害に見舞われ続けている今年の日本。
横並びの教育ではなく、個性豊かな教育をしなければ、
同じような解決策しか発想できないようになってしまうのではないでしょうか。
日本国民がもっともっと「多様性」を受け入れ、それを伸ばしていくことが、
これからの日本を支えていける人材育成に繋がるように思えます。




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婦人の教育および地位

2018/07/08 (日)  カテゴリー/本のご紹介

さて今日は、武士道における「男女」についての考え方について。
ちょっと長いので、前編・後編に分けてご紹介したいと思います。
で、今回は前編。ではどうぞ。

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第十四章 婦人の教育および地位
(略)
《彼らの教育の指導精神は家事であった。
 旧日本婦人の芸事の目的は、その武芸たると文事たるとを問わず、
 主として家庭のためであったと言いうる。
 彼らは、いかに遠く離れさまようても、決して炉辺を忘れることはなかった。
 彼らは、家の名誉と対面とを維持せんがために、辛苦労役し、生命を棄てた。
 日夜、強くまたやさしく、勇ましくまた哀しき調べをもって、
 彼らはおのが小さき巣に歌いかけた。
 娘としては父のために、妻としては夫のために、
 母としては子のために、女子は己を犠牲にした》
《女子がその夫、家庭ならびに家族のために身を棄つるは、
 男子が主君と国とのために身を棄つると同様に、喜んでかつ立派になされた。
 自己否定―これなくしては何ら人生の謎は解決せられない―は
 男子の忠義におけると同様、女子の家庭性の基調であった。
 女子が男性の奴隷でなかったことは、
 彼女の夫が封建君主の奴隷でなかったと同様である。
 女子の果たしたる役割は、内助すなわち「内助の助け」であった。
 奉仕の上昇階段に立ちて、女子は男子のために己を棄て、
 これにより男子をして主君のために己を棄つるをえしめ、
 主君はまたこれによって天に従わんためであった。(略)》

これは、女性を大事にしろ、という意味ではありません。
婦人には婦人の役割、男性には男性の役割がある。
婦人が役割を果たすべきところは「キッチン」である。「台所」である。
それから、男が役割を果たすところは「戦場」である。
それぞれのところで自分に課せられた役割を果たすのだから、
どちらが偉いなどという問題ではない。
それぞれの役割を果たしているという意味において「平等」である、
ということを言っているのであって、何でもかんでも一緒くたにして
「差別」だなどと皮相なスローガンを叫び立てていた
戦後の「悪平等」論などとは似て非なるものなのです。

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私は高校時代に「さぶ」という作品に出合ってから、
山本周五郎に傾倒し、たくさんの作品を読んで今に至ります。
彼には、色んなジャンルの素晴らしい作品があるのですが、
そのうちのひとつが「武家もの」と言われるジャンル。
『泥棒と若殿』や『水の下の石』など、ぜひ皆さんにもご一読いただきたい、
珠玉の名作がた~~~くさんあるのですが、
武家ものと言っても、男の武士が主人公になるものばかりではなく、
武士を育てる母であったり、武士の妻が主人公の作品も多いです。

今回、ご紹介した個所を読んだ時、周五郎の作品に親しんできた私には、
この内容がすんなりと理解でき、本当にその通りだな~と思いました。

「女子がその夫、家庭ならびに家族のために身を棄つるは、
 男子が主君と国とのために身を棄つると同様に、喜んでかつ立派になされた」
「女子が男性の奴隷でなかったことは、
 彼女の夫が封建君主の奴隷でなかったと同様」
つまり、男の方が偉くて、女の方が下ということではないわけです。

「婦人には婦人の役割、男性には男性の役割がある」
「それぞれのところで自分に課せられた役割を果たすのだから、
 どちらが偉いなどという問題ではない。
 それぞれの役割を果たしているという意味において『平等』である」
とあるように、これは生まれながらにして
「性差」というものは存在しているのであって、
それぞれの性別においての得手不得手があって当たり前であり、
それぞれの長所を活かし尽くしてこそ、良い働きができるのだということでしょう。

次回は、今日ご紹介した部分の続きをご紹介します。




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克己

2018/07/02 (月)  カテゴリー/本のご紹介

現在、ご紹介を続けておりますこちらの本。

「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは (小学館文庫)


皆さん、結構興味を持ってご覧下さっているようで嬉しいです♪
それでは、今日も印象的だった個所をご紹介します。

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第十章 武士の教育および訓練
(略)
知識でなく品性が、頭脳でなく霊魂が琢磨啓発の素材として選ばれる時、
教師の職業は神聖なる性質を帯びる。
「我を生みしは父母である。我を人たらしむるは師である」。
この観念をもってするが故に、師たるものの受くる尊敬は極めて高くあった。
かかる信頼と尊敬とを青少年より喚び出すほどの人物は、
必然的に優れたる人格を有しかつ学識を兼ね備えていなければならなかった。
彼は、父なき者の父たり、迷える者の助言者であった。
語に曰く、「父母は天地のごとく、師君は日月のごとし」と。
あらゆる種類の仕事に対し報酬を与える現代の制度は、
武士道の信奉者の間には行われなかった。
金銭なく価格なくしてのみなされうる仕事のあることを、武士道は信じた。
僧侶の仕事にせよ、教師の仕事にせよ、
霊的の勤労は金銀をもって支払わるべきでなかった。
価値がないからではない、評価しえざるが故であった。
(略)


第十一章 克己
(略)
しかして克己の理想とするところは、
我が国民の表現にしたがえば心を平らかならしむるにあり、
あるいはギリシャ語を借りて言えば、
デモクリトスが至高善と呼びしところのエウテミヤ
(何ものにも動かされぬ内心の平安。「晴朗」「快活」「静穏」と訳される)
の状態に到達するにある。

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まず、前半。
「師」というものが、本当の聖職だった頃、
その「師」が持つ人格、品格、霊性は必然的に尊敬に値するレベルのものであり、
なおかつ知識や教養は当然、必須だったわけです。

本文中の“僧侶の仕事にせよ、教師の仕事にせよ、
霊的の勤労は金銀をもって支払わるべきでなかった。
価値がないからではない、評価しえざるが故であった”という表現は、
ベースに武士道の価値観があってこその考え方だな~と思いました。
現代の教師職というのは、もはや聖職ではなくなった感があります。
「教える」ということを仕事としているサラリーマン…というか。
もちろん、私の友人たちもたくさん教師として働いているので、
全員が全員、そうだというつもりは毛頭ありません。
子どもたちのために、自分の時間を犠牲にして、必死で働いています。
ただ単に、昔々と比べると…ということです。
時代の流れに沿ってやってきた結果が、この状態だということです。

そして、後半。
“克己の理想とするところは、心を平らかならしむるにあり、
 エウテミヤ (何ものにも動かされぬ内心の平安) の状態に到達するにある”
というのも、なるほど~と思わされました。
そもそも「克己」とは、デジタル大辞泉によれば、
自分の感情・欲望・邪念などにうちかつこと…と説明されています。
つまり、自我に打ち勝ち、心を平穏に保てる状態に至るというのが、
克己の理想だと、李登輝氏はおっしゃっているわけです。

私がここ数年、ひたすら自分自身と向き合い、
「私がこの人生で絶対に手に入れたいものはいったい何なのか?」
…について知ろうと努力し続けた結果、出た答えが「心の平穏」でした。
ですから、そんな私には、李登輝氏が書かれた文章が胸に深く入ってきました。
皆さんは、どのように感じられたでしょうか。




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2018/06/26 (火)  カテゴリー/本のご紹介

私はここ数年、きちんとヨガをやったことはないのですが、
「呼吸法」については、わりと研究しています。
そして、それに付随する形で、瞑想についても調べています。
今日は、そんな私がとても興味深く読んだ個所を…。

============================

《「禅」とはディヤーナの日本語訳であって、
 それは「言語による表現の範囲を超えたる思想の領域に、
 瞑想をもって達せんとする人間の努力を意味する」
                   (小泉八雲『異国情緒と回顧』からの引用)。
 その方法は瞑想である。
 しかして、その目的は、私の領解する限りにおいては、
 すべての現象の底に横たわる原理、能うべくんば絶対そのものを確知し、
 かくして自己をばこの絶対と調和せしむるにある。
 かくのごとく定義してみれば、この教えは一宗派の教義以上のものであって、
 何人にても絶対の洞察に達したる者は、現世の事象を脱俗して、
 「新しき天と新しき地」とに覚醒するのである》
ここは、かなり難解な部分です。
「禅」の目的は瞑想をすることであり、
自己を「絶対」と調和させることだ、と言っていますね。
ここで言う「絶対」とは何か。
たとえば、キリスト教において神は絶対でしょう。
神を追求する過程において、人間はそれぞれの環境、
すなわち時間と空間を通して、自己の意識を深化するものです。
つまり、どの宗教に限らず、「絶対」を追求するかぎりにおいて、
人間はそれぞれの環境に基づく内的必然性を通して、
自己の意識を深化するものである、ということなのです。
「絶対との調和」とは、自己の意識を深化する、
すなわち深く考え、寛く感じる心を持つということです。
そうすることで、一段の高みに到達できる、と新渡戸先生は説いています。
(略)

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<< >>で囲まれた個所は、『武士道』からの引用部分。
それに、李登輝氏が解説をしているというところです。
まあ、李登輝氏の解説自体も、相当難解かもわかりませんが。(笑)

私はここ数年、禅寺や坐禅にとても興味を持ち、
宿泊体験とかやってみたいな~って、よく思うようになりました。
小泉八雲の「禅」の説明、とても上手いですよね。わかりやすい。

“「禅」の目的は瞑想をすることであり、 自己を「絶対」と調和させること”
李登輝氏が書かれていたように、「絶対」が「神」であるとするならば、
これは、瞑想を通して、人と神が調和することが禅の目的といえます。
また、聖書にも
「人生の真の目的と目標、神こそそれである」という言葉があります。

“宗教に限らず、「絶対」を追求するかぎりにおいて、
 人間はそれぞれの環境に基づく内的必然性を通して、 自己の意識を深化する”
とあるように、やはり大切なのは、自己の意識を深化する、
つまり、自己を掘り下げるという作業がとても大切なように思います。
その作業を通して、“深く考え、寛く感じる心を持”ち、
その結果、“一段の高みに到達できる”わけです。




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