「いい人」をやめると楽になる

2014/01/22 (水)  カテゴリー/本のご紹介

この前、図書館で、曽野綾子さんの著書
『「いい人」をやめると楽になる』を借りてきて読みました。

その中で、心に残る箇所が結構たくさんあったのですが、
今日はその中から、次の文章をご紹介します。

=============

「ほどほどの悪」と共生して生きるという認識は、
私の中で、非常に重大な意味を持つ。
もし自分の中に「ほどほどの悪」の自覚がなければ、
私は即座に人間を失うであろう。
自分がかなりの人道主義者だなどと思ったら、
そのときから、誰もが腐臭を放つようになる。

社会の中にもほどほどの悪がないところは、
むしろ巨大な腐敗に結びつく、という実例を、
今世紀の後半にも私たちは嫌というほど見せられて来た。
人民が毛沢東のおかげですべて幸せだと言い切っていた時代の中国は、
言論を弾圧し、人民の思想の自由を奪った。
日本では見られないほどの特権階級が、
人民から浮き上がった権力をほしいままにしていた。

「ほどほどの」という形容詞がつく状態ほど、
愛や許しを思わせるものはない。
ほどほどの自信、ほどほどの貧乏あるいは豊かさ、
ほどほどの挫折感、ほどほどの誠実、ほどほどの安定、ほどほどの嘘、
ほどほどの悲しみ、ほどほどの嫌気、ほどほどの期待または諦め……
すべて人間を深く、陰りのある、いい味と香のする存在にする。
そのような人は、人間の分際を知った判断をするからである。

しかし現代には、そのほどほどの悪を
自分にも他人にも決して認めない自称ヒューマニストがいる。
そういう人たちは、現代の日本で、人が享受する
すべての便利を同じように受けながら、発電所の建設には反対し、
日本のジャーナリズムで発言することで金を得ながら、
紙の原料である森を切ることには反対だ、と言うのである。

生きるということは、これまたほどほどに人を困らせることでもある。
ほどほどに大地を汚し、森を荒らし、水と空気を汚染し、
ほどほどに他人の受ける便利や幸福の分け前を、力で収奪することである。
その疚(やま)しさをほどほどに減らそうとする時、
初めて人間は少し人のことを考える行動を取れる。


ーーーーーーーーーー


私が生涯「仲よし」にならなかった人種は、
自分が人道的に正しいことをしている、と思っている人たちであった。
「一人の人間の命は地球よりも重いじゃない」と片方で言いながら、
「産む産まないは女の自由よ」と言うのは論理に矛盾があるのに、
そう言って自己肯定をした人たちである。
そういう辻褄の合わない人とは、
どう付き合って行ったらいいかよくわからなかったのである。
胎児は中絶しない限り、そのほとんどは生き続けるれっきとした命で、
しかも抗議も署名運動も反対のデモもできない
もっとも弱い存在だということは明白なのだから、
もし一人の人間の存在が地球よりも重いならば、
胎児を中絶するなどということはもってのほかだ。
胎児は無抵抗の存在だが、れっきとして生命そのものであり、
その弱者を勝手に「間引く」という思想は戦慄すべきことだろう。

しかし「人間は、自分を生かすためには、
子供だって見殺しにすることもありますよね」と言う人とは、私は親友になれた。
自分の中にある矛盾した要素を承認した人である。


=============

この本は、平成11年に発行されたものですが、
それまでに曽野綾子さんが書かれた小説やエッセイ、寄稿などから、
ご自身でまとめられたたくさんの言葉が載っています。

まえがきからも、少しご紹介します。

=============

ここ数年、私はときどき居心地が悪いことがあった。

世間の多くの人が、人道主義を声高らかに唱えて大合唱をする。
自然保護、原発反対、ダム反対、日本の戦争責任追及。

しかし私はほとんどどれにもはっきりした確信をもてない。
私は畑が好きだから、たぶん自然愛好の心はあると思うのだが、
同時にマラリアを防ぐためには、原生林を少なくとも
自分の家の周囲では切らなきゃとうてい住めたもんじゃないのになぁ、
などと考えている。

私は、自分がかなり狡(ずる)くてよくない人間なのだ、
とますますはっきり自覚するようになった。

しかし、いい人をやめたのはかなり前からだ。
理由は単純で、いい人をやっていると疲れることを知っていたからである。
それに対して、悪い人だという評判は、容易に覆らないから安定がいい。
いい人はちょっとそうではない面を見せるだけですぐ批判され、
評価が変わり、棄てられるからかわいそうだ。


=============


皆さんは、これらの言葉をご覧になって、どのようにお感じになったでしょうか。
たしかに「いい人」を続けるってことは、本当に大変ですよね。(汗)
すべての人に受け入れられるなんてことは、すべての人の価値観が一致しない限り
あり得ないことですし、それは「人」に限らず、「組織」「国」なども同様。

さらに、もう少しご紹介したい箇所がありましたので、それはまた明日。




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噂話

2014/01/23 (木)  カテゴリー/本のご紹介

さて今日も、予告どおり、
曽野綾子さんの著書『「いい人」をやめると楽になる』から、
気になった箇所を少しご紹介したいと思います。

==============

いずれにせよ、正しく相手の言ったことを記憶するなどということ、
正しくその時の状況を把握するなどということ、
正しく他人の心理を理解するなどということは、
ほとんど不可能と思ったほうがいい。

だから、俳優さんやタレントの、主としてお噂話を主体とした
女性週刊誌などを熱心に読んで、「誰それさんは、こうなんですって」など
架空の出来事に対して憤慨したり、喜んだりしている女性を見ると、
私は女が男と同じ能力を持つことを示すためには、
まずこの手のむだな情熱に時間を費やすことと、
世間を簡単に信じるその善良さを追放しなければならない、と思いそうになる。
ものの本質を見抜くこと、甘くない現実を認識することは、
疑いの精神から発するのである。

ーーーーーーーー

我々が他人の言葉を記憶したという自信ほど、当てにならないものはない。
微妙にニュアンスが違って記憶され、
その言葉を口にした人が驚くほど違った意味で解釈され、固定される場合が多い。
だから「あなたはこう言ったそうですね」などと言われると、
「ああ、言ったよ」と言う人より
「そんなこと言わなかったよ」と反論する人のほうが多いのだ。


==============

私も在蘭中、根も葉もない噂をたくさん流され、
本気で「名誉毀損で訴えてやろうか!!」と思うほど、(笑)
傷付けられことがあります。
所詮、人の噂話ってものは、これほど「真実」とはかけ離れた、
いわば「作り話」「架空の話」なわけで、信じるに足りない話だということを、
噂話を耳にした私たちが理解しておかなければなりませんね。

曽野綾子さんが書かれているように、
「女が男と同じ能力を持つことを示すためには、
 まずこの手のむだな情熱に時間を費やすことと、
 世間を簡単に信じるその善良さを追放しなければならない」というお考えに、
私も激しく同意してしまいます…。


==============

勝気で、他人が少しでも自分より秀でていることを許せない人は、
自分の足場を持たない人である。
だからいちいち自分と他人を比べて、少しでも相手の優位を認めない、
という頑なな姿勢を取ることになる。

人間は誰でも、自分の専門の分野を持つことである。小さなことでいい。
自分はそれによって、社会に貢献できるという実感と自信と楽しさを持つことだ。

そうすれば、不正確で取るに足らない人間社会の順位など、気にならなくなる。
威張ることもしなくなるし、完全な平等などという
幼稚な要求を本気になって口にすることもなくなる。

ーーーーーーーー

親しい友人に出すのは別として、私は少し難しいニュアンスを含んだ手紙は、
書いたその日のうちには出さないようにしている。
ことにいっきに書いた手紙などというものは、ラブレターだろうが、
窮状を訴える手紙だろうが、抗議の手紙だろうが、
感情がもろに出て居すぎて、危なくてしかたがないから、
やはり一定の時間をおいて、よく読み直してから出すのである。
すると必ず細かい部分でもう少し柔らかく、とか、
この文章はどうも自信ありげでいけない、とかさまざまな傷が見えて来る。
それをていねいに修正する時間を取らなければならない。

軽佻浮薄にものを言っているという姿勢がはっきりしている場合なら、
どんなばかなことを言ってもいい。
しかしそれ以外の場所で、私は自分の言動に
自信のあるようなことを言うのが好きではなかった。
断定すると、後で困ったことになるからであった。


==============

このブログを、長期間読んで下さっている方はご存知だと思いますが、
私は本帰国直後、R子さん(仮名)とそのご主人から、
ある程度先方が保持している「力」を利用された“イジメ”というか、
“嫌がらせ”に遭い、長期間に亘り精神的に追い詰められました。

そのR子さんが、まさにこの曽野綾子さんが書かれている言葉と、
凄くリンクしていたので、ついつい思い出してしまいました。

それは、R子さんが、恐らくご自身が今ご覧になったら、
顔から火が出そうなほど恥ずかしい思いをされるような、
そのときの感情がもろに出た、冷静さを完全に欠いた、
“人間の愚かさ”が感じられるメールを、私に送ってこられたから…。
(R子さんが愚かな人間だということではありませんよ。
 人間そのものが、誰しも“愚かさ”を持っているということです)
感情の赴くままに書いた文章というのは、本当に危険です。(汗)
一度送ってしまうと、もう取り消せませんからね。

私は当時、R子さんのメールを拝見し、
「私は絶対に、こんな感情のままに書いた酷いメールを、
 誰にも出さないようにしなければ…」と思わされたため、
曽野綾子さんが仰っているように、一定の時間をおいて、よく読み直して、
必要があれば柔らかい表現にするなどの修正を加えてから出すようにしています。
感情のままに書きなぐった手紙やメールは、決して良い結果を生みませんよね。
「人の振り見て我が振り直せ」との教訓を思い出すことができれば、
自分が人として成長する糧になります。

こんなブログ記事もありました。 ⇒ 「メールは怖いですね」(※ リンクしています)


==============

匿名批評をしたり、デモのとき覆面をしたりするというのは、
自分の言行の結果を引き受けない、という逃げの意思表示である。
それは無責任な暴徒の心理と同じである。
こういう態度は、その人の基本的な生きる姿勢に深く影響を及ぼすから。
私は自分の子供に、匿名でものを言う人になって欲しくない、と願ったのである。

もっともたった一つ、匿名が別な意味を持って麗しくなり得るケースがある。
それは、匿名で人を褒めるときである。
だから、私がやってもいいと思うのは、けなす時は署名入りで、
褒めるときは匿名で、という形をとることである。


==============


これ、ブログのコメントでもいえることですよね。
共感や応援などのコメントの場合は、曽野綾子さんが仰るように、
匿名のままで何の問題もないわけですが、
一方的な批判や誹謗中傷コメントなどの場合は、
匿名での投稿というのは、とても卑怯に感じられます。

私はこれまで、たくさんのブログを拝見してきましたが、
基本的には、共感できる場合のみ、コメントをするようにしてきました。
批判したくなるようなブログの記事の場合は、そもそもコメントなんてしません。
会ったこともない相手に対して、ただ嫌な思いをさせるだけのコメントに、
何の意味もないと考えるからです。

皆さんは、どのような感想を持たれたでしょうか?




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「知る権利」と「知らせない権利」

2014/01/30 (木)  カテゴリー/本のご紹介

少し間が開きましたが、今日もまた曽野綾子さんの著書
『「いい人」をやめると楽になる』から、ご紹介します。

=============

今はすぐに「知る権利」ばかりが言われるが、
個人にも組織にも「知られない権利」と「知りたくない権利」は
依然として残っているだろうと思うのだ。
その点については、だれもほとんど言わないのが不思議なのである。

人には、理由がなくても、他人は見せたくないというものがある。
日記などはその最たるものだろうか。
別にその中に夫に隠してよその男と会っていたとか、
誰かに対する殺意や妬みを書いてあるわけではない、としても、
日記などというものは、普通の神経なら(小説家は知らないが)
他人には見られたくないものである。

外にもまだその手のものはいくらでもある。
どの会社にも、社外には秘密にしなければならない技術的な部分がある。
あらゆる警察や軍隊は「知らせない権利」の元に成り立っている。
戦力というものは、ある場合はないように見せ掛け、
ない場合にはあるように見せ掛けるのが、当然の戦略なのだから、
ここでも「知る権利」など当然拒否される。

ーーーーーーーーーー

誰に対しても、どの国民に対しても、変わっていると思うなとか、
変わっているのを止めろ、というのは、
考えてみれば学問的態度でもなく、心理学的姿勢でもない。
もちろん商習慣や他の表面的なことは、充分に通用するように配慮するのは当然だが、
最近の日米関係は複雑で、ウラのウラ、そのまたウラもあるそうで、
私たち素人が新聞で読むのとは、まったく違った視点があるという。
それはたいへん結構な成り行きなのだが、庶民に示されるのは型どおりの解説だから、
両国の関係を憂うあまり妥協の姿勢を示すと、それが、長い年月には
間違った知識として定着するのではないか、とさえ思える空気が漂いだした。

「日本人は働きすぎる」などというのは、まったく余計なお世話、の典型だろう。
個人に対しては失礼な内面干渉、国や社会に対しては内政干渉である。
日本人がどんなに働こうが遊ぼうが、それはその人が自ら選んだ範囲で納得して、
好きでやっているのだから、止めることはできない。
それをアメリカ人の生き方が妥当だから、それと同じように変えろと
強制するという発想は、新たな植民地主義である。

ーーーーーーーーーー

ただおぼろげながらわかることは、外国では、
人は自分と考えが違うものだ、と誰もが思っていることだ。
人が違うのだから、考えも違って当然である。
しかし日本人はそうは思わない。
違うということは、反道徳的なことになる。
つまり多くの人は自分が正しいのだから、
正しいものの反対は悪いものだということになる。

ーーーーーーーーーー

日本では いい人はどこから見ても傷のない人であるべきなのだ。
栄誉ある軍人墓地に葬られる人は、終生正しい人でなければならない、
という感覚を持っている。

しかしオクラホマシティのビル爆破犯人に関する新聞記事は明快であった。
彼は戦場では勇敢に戦ったが、その後は「落ちた英雄」として
その名を留められればいいというのである。
確かにアーリントン墓地にはさまざまな人が葬られているはずだ。
妻を裏切った女たらし、手形詐欺をやった人、
怠け者、非常識で自分勝手な学者など。
しかし彼らは国のために戦った、あるいは戦わされた、
ということだけでは一致してるから、そこに葬られる資格がある。

他人を全体的に理解することはほとんど不可能だ、という認識があると、
社会や人生を、部分的に評価して、過不足ない現実を掴む。
しかしその人の道徳性などで判断すると、
人間の全体像はますますわからなくなる。

ーーーーーーーーーー

人は他人の罪の許しを求めることも(優しい感情としては神に願うが)、
自分の罪を他人に許してもらうように代理を頼むこともできない。
そんないい加減なことは、私のいい加減な信仰でも考えられないことだ。
そこでどうしてもそれをしたければ、何十年後であろうと
ナチスの暴虐を追及するように、かつての日本で、
直接そのような命令を下した人、命令を実行した人を、
法廷の場に引きずり出して裁く他はない。

心から自分の罪だ、と思っていない人が謝るとしたら、
それはそれだけで侮辱的な不誠実な行為であり、
そんなものはけっして謝ったとみなされないどころか、
むしろ口先だけ簡単に謝ってみせる誠意のない人間の証拠として、
国際社会から改めて嫌悪されるだろう。

ーーーーーーーーーー

自分の親でも子でも兄弟でも配偶者でもない赤の他人が、
戦争中に犯したことを謝れと言われても、私にはむずかしい。
もちろん謝れ、と言われれば謝っておいてもいいけれど、
謝るというのは本来自発的でなければ
意味のない行為だから、強制されて謝っても何の意味もないだろうと思う。
それを知りつつあえて謝れというのは、個人なら威張りたい人、
イコール弱い人なのではないか、と思う。

個人関係の場合、相手に謝らせるくらいなら、
こっそり侮蔑していたほうがいい、と私は思う。
しかし国際間の謝罪というものは、本来なら金銭の要求ということである。
それだから、なおのこと謝れない場合が多い。
自分が悪いと思っていても、謝ったら金を取られると思うから
払えない場合は謝れないのである。
さらも「国益」という、とにかく自分の国は損をしたくない、
という気持ちがあるから、ほとんど謝るということをしない。
その点でも、自国のことを執拗に悪く言う日本の新聞の「公正さ」というものは、
人間離れしていて気味が悪い。

ーーーーーーーーーー

人間は本質的に、平和と同時に喧嘩も好きなのだ。
だから、人間は誰でも平和だけが好きだというまちがった認識の上に立って
物事を話すと、議論が上滑りする。


=============


今回、こちらの本から色々と心に残った言葉をご紹介しました。
昨今の日本の現状をみるとき、曽野綾子さんの言葉が、
本当にびんびんと響いて心に届くように感じました。

狭い視野の中でだけ、何らかの考えに固執して、
あれこれ文句を言う(?)人も多いですが、
やはり、様々な判断基準を自分で身に付けることが大切ですね。
皆さんは、どのようにお感じになったでしょうか。




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日本とドイツのお話

2014/03/10 (月)  カテゴリー/本のご紹介

やることはたくさんあるのですが、それでもなんとか、
ペースを落としつつも、読書は進めています。
今日は、最近読んで良かった本をご紹介したいと思います。

その本とは、こちら。

なぜ日本人は成熟できないのか


「日本人ほど誠実で物知りで頭がよく、生真面目な勉強家が多く、
 実務家としてすばらしく有能なDNAを持った人種はいない。
 しかし、日本人はなぜか大人ではない。なぜか? 
 日本人ばなれしたスケールの2人が日本人を語る」

海外へのボランティア活動も活発に行っておられる作家の曽野綾子さんと、
ノンフィクション作家で、現在ドイツのフランクフルト近郊にお住まいの、
クライン孝子さんの共著の1冊ですが、大変印象深かったのでご紹介します。

構成としては、
第1章 大人になれない日本人
第2章 家庭の王様は社会の孤児
第3章 人間をつくらない学校と社会
第4章 危険のない国はない
第5章 与えることが大人への道
という、5章立てになっています。

それぞれの章には、たくさんのテーマでためになることが書かれています。
全てをご紹介したいくらいなのですが、そんなわけにはいきませんので、
今日は「第4章 危険のない国はない」の中から、
「助け合いと危機管理の精神がつくるコミュニティー」という
タイトルの一節をご紹介したいと思います。

===============

<助け合いと危機管理の精神がつくるコミュニティー>

日本人は、外国へ出て自分の国の話題になった時、
きちんと話せる人が非常に少ない。
地に足が着いていないというか、いきなり抽象的で浮ついた話が飛び出して、
説得力がないんですね。

たとえば「グローバル化」という話がテーマになったとする。
この宇宙単位の「グローバル」の話に行き着くには、順序があるわけです。

それは、少しずつ積んでいく積み木のようなもので、
もっとも下にあるものから積み重ねていかなくてはいけない。
その最下段にあたるのが個人です。
私という個人であり、その上には家族がある。
家族の次は地域社会、いわゆるコミュニティーで、そこから国、
世界へと広がり、そしてようやく地球=グローバルという単位が登場する。

しかし日本人は、個人からいきなり「グローバル」に到達しようとして、
真ん中のプロセスを省略してしまいがちです。
とりわけ日本は戦後、コミュニティーを軽んじできてものだから、
その部分がすっぽり抜け落ちてしまって空洞化している。
だから、何を言っても今ひとつ説得に欠ける。心に響くものがない。
相手にきちんと伝わらない、もしくは伝えることができない。
どうも上滑りしてしまっている感じがしてなりません。

新潟県で、ある青年が当時小学校4年生の少女を誘拐して、
9年2ヶ月にわたって換金していた事件がありましたでしょう。
犯人の母親がそれに気づかなかったというのも信じられないけれど、
近所の人たちが不審に思ったことがないというのも異常です。
日本人は、「個人主義」を「無関心主義」と勘違いしているところがある。

ドイツの場合、隣の家にどんな人が住んでいるか
知らないなどということは、あり得ません。
中には、おせっかいな人もいて、うるさいなあとか面倒くさいなと
思うことはあるけれど、コミュニティーがしっかり確立しているから、
そういう意味では安心して暮らすことができる。

ドイツは国民一人ひとりが助け合いと危機管理の精神を持っています。
それが、コミュニティーをつくり、ひいては国力につながっているのです。

以前、朝日新聞の「声」欄に、戦争が起きて敵が攻めてきたら逃げる、
という青年の投書が載っていましたが、その話をドイツの若者にしたら、
「日本の国の若者は、自分の国がどうなろうと
まったく関心がないのだろうか」と言っていた。

若い女性ですら「いきなりどこかの国が攻めてきたら、
私だって、きっと応戦すると思う。それなのに日本の若者は、
自分の国の人々を見殺しにしても逃げるつもりなのかしら」
と語っていました。
もちろん私は、戦争はどうにかして回避すべきだと思っていますし、
若い人たちに国のために命を捧げろなどと言っているのではありません。

しかし時として、人間の根源にある勇気や責任、
義務を果たすことが必要なのではないか、と思うのです。
少なくともドイツの若者たちは、日々の学校や家庭、社会生活の中で、
それらを教えられている。

国を守らねばならないと思うのも、その一つの現れです。

ドイツも、敗戦直後は日本と同様、軍隊は解体されていました。
そして東西に分断され、冷戦の最前線にあった。
とくにソ連は拡大政策をとって、すきあらば西側へ侵入しようとする。
西ドイツ側には、何とかして自分の力で止めなくてはならないという、
言葉にならないすごい危機感があった。

米英仏が40万人の兵隊を置いてその防壁になってくれてはいたものの、
それだけでは足りない、自分たちで守らなければならない、と。

それで憲法を改正し、1995年には兵役が定められた。
何しろドイツは戦後から現在まで、憲法を50回近く変えています。
その理由は、やはりドイツという国を守るためなのです。

==================

この本は、2003年に発売されたものですが、
この中に書かれていたのと同じような、
「為政者のために戦争で戦って死ぬのは真っ平ごめん」
「戦争するくらいなら中国の属国でいい」的な発言を、
私が本帰国後、テレビの中のやくみつるさんがしておられたのを見て、
正直、唖然茫然とした覚えがあります。

ヨーロッパで生活をしたことのある方は、「軍」が身近な存在である生活が、
日本人がイメージするのとは違うものだということを、
肌で感じておられる方も多いと思います
なんていうんでしょう。「警察」に近いような…。
「この人たちがいてくれるから、安心」というか…。

ドイツは、日本と同様に第2次世界大戦の敗戦国でありながら、
どうしてこれほど日本とは違う“確固たる国”になれたのか。
そういったことについても、この本では触れられていますので、
また、このブログでご紹介したいと思っています。




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All About COCOMO

宗教教育の意味

2014/03/25 (火)  カテゴリー/本のご紹介

このブログで、最近よくご紹介しているのが、
曽野綾子さんとクライン孝子さんの共著、
「なぜ日本人は成熟できないのか」からの一説。

この本からの引用の記事をご紹介した日は、
わりと多くの方が読んで下さっているように感じております。
恐らく、私と同じように、色々と思わされるところが、
皆さんにもおありなのだろうと思います。

ということで、今日も再びこちらの1冊から、
以下の箇所をご紹介したいと思います。

=======================

第3章 人間をつくらない学校と社会 より
<宗教教育の意味> 曽野綾子

日本は、ドイツとは大違いです。
アメリカのテロ多発以来、宗教の話をすると、
一神教は排他的だと非難されてしまう。
キリスト教はそうではないということが、いくらでも聖書には書いてある。
聖書を読んでいない人ほど、そう言うんです。

とくにオウム真理教の事件がおきてから、ほとんどの日本人は、
宗教は全部迷信だと思っている。
いつも言うことですが、教団の指導者が神や仏の生まれ変わりだと言わず、
質素な生活をし、信仰の名のもとに金銭を要求せず、教団の組織を
政治や他の権力に利用しようとしない限り、別に用心する必要はありません。

神はいないと言う人も多いけれど、神なしで生きられるなら、それでいい。
しかし私は、神という概念がないと、
人間という分際を逸脱すると感じているのね。

信仰を持つと、価値判断が一方的にならない。
世の中には、神もいいと言い、社会もいいと言うものもある。
世間は誉めそやすけれど、
神は「そんなことは良くない」と思われるようなこともある。
社会がよくないと言ったり悪だと糾弾したりしても、
神は「それは正しい」と言うものもある。
もちろん、神も社会も「よくない」と言うこともある。
だから神が存在していることで、
もっと複眼でものを見ることができるようになるのです。

(略)

私は世界中で、日本にはない、
すばらしい発想にたくさん出合いました。
なぜ日本人には、そういう考え方が生まれないのか。
それは、どの宗教であるかにかかわらず、
神が不在であるからかもしれません。

日本人は、自分が宗教を持たないことをしばしば
科学的姿勢と思って誇りにしますが、世界では通用しない。
外国へ行った時に、入国カードに「無宗教」と書く人間は
一種の危険人物だと思う国はいくらでもあるし、
無神論者を信用しない人々はたくさんいます。
国際的な感覚では、どんな宗教でもいいのですが、
神がいないような人こそ何をしでかすかわからない、と危惧を覚えるのです。

私は海外でミサに出るとき、一緒に旅をしている人たちに
「キリスト教というのは、文学にも絵画にも音楽にも全部関係があります。
だから、知っておおきになって損なものではない。
教養として、ミサというものにお出になったらいかがですか」と申し上げています。
入信はしなくてもいいのよ。
でも、三大宗教くらいは知っているのが教養であり、世界の常識だと思う。

最近は、宗教を悪のように追放してきたから
日本の教育がこれほどまでに崩壊したのだと語る人たちが増えてきて、
私は少し不安になっているんですけれど。
無神論者も、その根拠がなければ根無し草のような人間になってしまう気がします。
日本でも義務教育の一環として、世界の三大宗教と神道、
無神論者のための哲学教室を用意し、少なくとも月に1回くらい、
生徒はそのどれかを受けるようにするべきだと思いますね。

=======================

私はオランダで暮らしているとき、
国の祝日も含め、全てキリスト教を基本にして動いている…
ということを実感しましたし、それが良いことのようにも思えました。
もちろん、オランダ人全員がキリスト教信者であるはずがないわけですが、
それでも国全体として、同じ基軸を持っているということは、
国民がバラバラにならず、自分たち国民がこの国を作っているのだという、
しっかりとした義務と責任を自覚することに繋がるのではないでしょうか。

日本には戦前、「国家神道」という、
オランダにとっての「キリスト教」に代わるものがありました。
もちろん、この「国家神道」というものに対しては、
負のイメージが大変強いことを認識してはいますが、
現在の日本に蔓延している「愚かな価値観」を憂える一人としては、
宗教を持たない人よりも、何らかの宗教観を持っている人の方が、
人間としては「立派」だと思える人が多いのではないかと思うのです。
それはもちろん、オランダでの生活を通じて感じたことでもあります。

ですので、最後に曽野綾子さんが仰っているように、
(宗教の授業はともかくとしても)
「哲学」を教えるような授業があっても良いように思いました。
正直、「道徳の授業」では物足りない気がします。
皆さんは、どのようにお感じになったでしょうか。




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