人間いかに生くべきか?

2018/06/02 (土)  カテゴリー/本のご紹介

さて、前回からご紹介し始めた『武士道 解題』。
皆さんには、どのような印象を与えているでしょうか。

前回ご紹介した部分の続きと、第二章で印象に残ったところを、
今日はご紹介したいと思います。
どうぞ、ご覧下さい。

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●教養教育の軽視と「武士道」の衰退
とにかく、日本の旧制中学や旧制高校の学生たちは、
徹底的に本を読みフィロゾフィーレン(哲学する=philosophieren)していました。
しかも、単なる「ブッキッシュ・ラーニング」
(Bookish Learning=本を通しての頭だけの理解)に終わらせず、
常にその成果を実人生に反映させながら実践し、苦悩し、呻吟していた。
それなのに、このような素晴らしく思索的で哲学的な雰囲気が、
戦後の日本教育の中でほとんどすべて否定されるようになったのは、
かえすがえすも残念でなりません。
(略)
そう言えば、当時の中学生や高校生の必読書の一つに
倉田百三の『出家とその弟子』という本も入っていました。
親鸞の子である善鸞の苦脳を通して、日本の中学生や高校生のほとんどが、
実に真剣に「人生とは何か」とか「人間いかに生きるべきか」などといった
大命題に真っ向から向き合っていた。
そして、それが日本という国の本当の“強さ”につながっていったのだと思うのです。
(略)


第二章 新渡戸稲造との出会い
●人間いかに生くべきか?
私は本当に子供のころから自分の内面(小宇宙)を見つめ続けてきました。
そして、「人間はなぜ死ぬのか」「生きるとはどういうことなのか」
というようなことばかり考え続けてきました。
そのような「死生観」に真っ向から答えてくれたのが、
カーライルと新渡戸稲造という二人の見上げるような哲人だったのです。
(略)
人間、「死」という問題を考え抜いて、
初めて「生」についても真剣に考えることができるようになるのです。死生観ですね。
そして、この問題に一つの大きな鍵を与えてくれたのが、「永遠の否定」であり、
またそれをいかにして「永遠の肯定」に変えていくかという生の哲学だったのです。
(略)

●カーライルと新渡戸稲造の出会い
(略)
憂きことのなほこの上に積れかし 限りある身の力ためさん (山中鹿之介)
敷島の大和心を人問わば 朝日に匂ふ山桜花 (本居宣長)
かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂 (吉田松陰)
これらはすべて『武士道』の中に出てくる日本の歌(和歌)ですが、
子供のころから「日本語で読み、日本語で考える」ことに専念してきた私にとっては、
まさに天啓のように、心の奥底にまでじんじんと染み通ってきました。
人間、死んだ気になってやり通そうとさえすれば、
どんなことでも成し遂げられないことなどないのです。
すなわち、徹底的に「死」の意味を追求していくことによって、
結局、輝かしい「生」の彼岸に到達できるのです。
(略)

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如何でしたでしょうか。
本当に、李登輝さんの思考の深さには敬服します。
そんな時代だった…という一言で、流せてしまうことではないと思うんです。
もちろん彼が言うように、当時の学生たちは真剣にモノを考え、
「生きるとは?」「死とは?」ということと、
真摯に向き合っていたのだろうと思います。

私はここ数年、本文にあったような「人生とは何か」「人間いかに生きるべきか」
「人生の目的とは何か」…というようなことを、深く考える時間を持ちました。
だから余計に、この本で書かれている素晴らしいお話の数々が、
胸にスーッと沁み込んでくるのかもしれません。
『出家とその弟子』という本はまだ読んではいませんが、
禅や仏教、キリスト教の「師」の方々が書かれた本は、割と読みました。
やはり宗教って、言ってることはほとんど同じなんですよね。(笑)
どの宗教であろうが、「良い教えは良い」のです。

“人間、「死」という問題を考え抜いて、
 初めて「生」についても真剣に考えることができるようになる”
と書かれていましたが、私も「死」について真剣に考える時間を持ったため、
このことについても、強く同意しました。
「終末期医療」の現場におられる医師や看護師が書かれた本は、
いずれ私に訪れる「死」を直視する大変良い機会を与えてくれました。

後悔しない「死」を迎えるために、今をどう生きるべきか。
人生を逆算して生きるようになりました。
だから、無為な時間が激減し、毎日が充実しています。
“徹底的に「死」の意味を追求していくことによって、
 結局、輝かしい「生」の彼岸に到達できる”と書かれていましたが、
本当にその通りだと思います。
でも、大抵の人たちは、「死」について真剣に考えるどころか、
どこか遠ざけて、忌み嫌って生きているように思います。
それは結局、「生」を軽んじてしまうことに繋がっているのではないでしょうか。




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『武士道』を読む

2018/06/08 (金)  カテゴリー/本のご紹介

さて、私がここ数年間、大量に読んだ本の中でも一番、
興じてしまい、熱中してしまった本をご紹介しておりますが、
皆さん、興味深くご覧頂いておりますでしょうか?

今日も私が「なるほど~」と深く納得させられた個所をご紹介します。

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第二部 『武士道』を読む
第二章 武士道の淵源
内村鑑三もそうですが、新渡戸稲造先生は、
一般に日本人が考えているようなコチコチに凝り固まった
偏狭な「一宗教の信仰者」などとは根本的に異なって、
キリスト教のみならず、儒教や仏教など、
ありとあらゆる宗教や思想を闊達に引用しながら、
いわゆる「道徳体系としての武士道」の本質を解き明かそうとしています。
このような、「寛い心」が、
世界の人々に深い共感と感動を与えたのではないでしょうか?
特に注目されるのは、日本の明治期における近代的なキリスト教の
パイオニア的な信仰者や伝道者のほとんどが、
何らかの形で「武士」の血を引いたものたちであった、という事実です。
そして、当然のことながら、
キリスト教に回心するまでの彼らの道徳体系の中核には、
ほとんどの場合、儒教がありました。
第一部でも触れたように、
私は子供のころから「死生観」について考えていました。
ヨーロッパには古くから、
「メメント・モリ」(memento mori=死を思え)という言葉があります。
このような考え方は十七世紀ごろになって、特に強くなったものです。
人生は一回限り、そして死の行き先は天国――。
こうした、死が天国につながるという考え方は、生を有効に、
愛を尽くして一生を捧げる気持ちによって裏付けられます。
単なる“個人”ではなくて、“公”に何かにつくすことによって救われるという、
ゲーテの『ファウスト』的な考え方がヨーロッパの死生観の根本であり、
キリスト教の精神なのです。
一方、儒教では死生観がはっきりしていません。
現実的な道徳に基づいた行動規範がその中心です。
儒教の根源は、人間性を出発点にした善悪を中心とする価値観でした。
儒教というのは、善悪を定めた道徳であるともいえます。
そうすると、ここにおいては死生観がはっきりしない。
そのため儒教においては、人間個々の生きる意義と、
そこに立てられた道徳の間に、かなりのずれが出てくるわけです。
内村鑑三や新渡戸先生が、キリスト者になっていったのは、
儒教における死生観不在のためではないでしょうか。
その「回心」は、理論的な変更である「転向」とは、似て非なるものです。
彼らは道を求める者、すなわち求道者であるがゆえに回心者となったのです。
(略)
それゆえ、広く日本の宗教全般に視野を広げて、
武士道の淵源を語ることができたのです。
(略)

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一度、『武士道』をきちんと読んだことがおありの方々には、
今日ご紹介したところに書かれていたことが、納得頂けるのではないかと思います。
新渡戸稲造は、「日本人の道徳や宗教観の根底には武士道がある」と考え、
そのことを外国の人たちにどうやって説明すれば伝わるのかを熟考し、
海外の宗教や思想、文学作品などを多数引用して、「武士道」を説明しています。
決して「上から物を言う」のではなく、彼らの文化を尊重した謙虚な姿を通して、
双方が理解を深める…ということに発展したのではないかと思います。

途中、「メメント・モリ」という言葉が登場します。
私はお恥ずかしながら、この言葉を知ったのは大学時代でした。
当時、大変親しくしていた早大学生の友人が、
詩人になることを夢に詩作に明け暮れていたのですが、
彼が作った「詩集(ワープロ打ち、手作り…笑)」に載っていた作品の中に、
この「メメント・モリ」という言葉が登場していたのです。
「死を思え」ということはつまり、「生を精一杯生きよ」ということにつながります。
私はここ数年、「一日一生」という言葉を胸に生きるようになりました。
「今日が人生最後の日」だと思って生きていると、無駄な時間が減るのです。

内村鑑三や新渡戸稲造が、儒教にはなくキリスト教にはある「死生観」を理由に、
「転向」ではなく「回心した」という考察は、大変素晴らしいと思いました。
皆さんは、どのように感じられたでしょうか?




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まず、仏教から…

2018/06/14 (木)  カテゴリー/本のご紹介

さて、今日は“宗教”に関して書かれているところをご紹介します。
オランダは、キリスト教に基づいた祝日が制定され、
キリスト教をベースに色んなことが動いていたように思います。

私がAmstelveenでのオランダ生活を始めて感動したことの1つに、
日曜日の朝の静けさと、教会の鐘の音がありました。
とても清らかで清々しい1日が始まる…という気持ちになったことを思い出します。
日本だと、お寺の鐘の音って、「朝」というよりも「夕方」ですものね。

では、どうぞご覧ください。

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新渡戸先生は、「武士道の淵源」として最初に仏教を取り上げています。
《まず、仏教から始めよう。
 運命に任すという平静なる感覚、不可避に対する静かなる服従、
 危険災禍に直面してのストイック的なる沈着、生を賎しみ死を親しむ心、
 仏教は武士道に対してこれらを寄与した》
仏教が武士道に与えた冷静、沈着なる心のありようは、
物質主義にとらわれている現在の日本に最も欠けていることのひとつと言えましょう。
経済ひとつをとってみても、株価が下がると不況だ不況だと騒ぎ立て、
本当に景気を冷え込ませてしまう。
もっと冷静に事態を受け止め、沈着に対処することが日本人にはできるはずです。
ただし、「生を賤しみ死を親しむ心」だけは、私が肯定できない考え方です。
(略)
本来持つべき死生観というのは、
死を知ることによって生をどうするかという問題意識なのであって、
生というのは非常に大事なことなのです、また、死を親しむ心ではいけない。
死は知ることが大切なのであって、
死を知ることによって生をどう生きるかという問題意識を持つことが
何より大切なのです。

《ある剣道の達人(注:柳生但馬守)がその門手に業の極意を教え終わった時、
 これに告げて言った。
 「これ以上の事は余の指南の及ぶところでなく、禅の教えに譲らねばならない」と》
(略)
私の体験は、物心両面から、一段の高みにある神への信仰に基づいています。
若い頃に傾倒した禅の体験も、求めるところは同じであったように思うのです。
つまり個人的な欲や物質主義から超越した、
もう一つ高い形而上学的なものが「極意以上のこと」なのでしょう。
そこに信仰という問題が出てくる。
信仰というのは理性ではないのです。
かつて私は、キリスト教に回心するにあたって非常に苦しんだことがあります。
納得のいく答えを求めて、五年間もありとあらゆる教会を回り歩いたのです。
「なぜマリアは処女にしてイエスを産んだか」
「なぜイエスが磔にされて、そして生き返ったのか」
どう考えても理性では説明がつかない不可能なことです。
五年の間、これは何なのかと悩み続けました。
その結果、これはもう理性的に考える必要はないのだ、と悟ったのです。
そうなのだ、イエスは本当に磔にされて生き返ったのだと信じること、
それがすなわち信仰なのです。
いまの私から見れば、この五年間の苦悩は、まさに精神的問題でした。
「死というのは、いったい何が死ぬのか」という命題にも通じていました。
それは結局、自我が死ぬことなのです。
自我を死なせる、そして生き返る。
(略)
決して肉体的な死とか、理屈でいう問題ではない、ということを教えています。
(略)

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如何でしたでしょうか?
李登輝氏がおっしゃっている
“仏教が武士道に与えた冷静、沈着なる心のありようは、
 物質主義にとらわれている現在の日本に最も欠けている”という見解は、
確かにその通りだと感じた方も多いのではないでしょうか。
なにせ、自分軸がしっかりしていない人が一般的になってしまい、
周りに流されて自分の考えや意思がない人多い。
まあ、今の若い人たちは、そうでもない人も増えてきたようには思いますが。

「死生観」について李登輝氏は、
“本来持つべき死生観というのは、
 死を知ることによって生をどうするかという問題意識”
とおっしゃっています。
つまり、「どう生きるか」についての答えを見つけるためには、
「死」というものを直視し、受け入れることが必要なわけです。

そして、「信仰」についても書かれていましたね。
日本人は、「信心深い」と言える人たちが少ないという印象があります。
八百万の神がいる国なのに…。(笑)

私の祖母は、毎朝、仏壇と神棚にご飯とお茶を供えて、お経を読み、
それが済むまでは絶対に朝食をとりませんでした。
私の目から見ると、祖母は信心深い人の1人でした。
どの宗教の神様に対しても、畏敬の念を抱く人で、
キリスト教の礼拝に出席しても、感謝できる素直な信仰の持ち主でした。

李登輝氏が必死で求め続けていたのは「極意以上のこと」。
“個人的な欲や物質主義から超越した、
 もう一つ高い形而上学的なもの”と書かれていましたよね。
我欲や物を求めるという低レベルな次元で生きることで得られる満足感ではなく、
もう一つ高い次元で得られる真の幸せを切に求めておられたのでしょう。

「何故だ?」「これは、どう理解すれば良いのだ?」という風に、
自分の頭で宗教や信仰を理解するのではなく、
李登輝氏がおっしゃるように“信仰というのは理性ではない”わけです。
「信仰する」ということは、頭で「こう信じなければならない」ということではなく、
心から素直に「こういうことなのだ」と受け入れることのように思います。
「神」という存在がいることをベースに宗教が成立しているとするなら、
「神」を否定せず、「神」を受け入れ、「神」の仰せに従って生きること。
そして、これらのことに何の疑いも持たず、素直でいること。
それが「信仰」ということなのだろうと思っています。




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大阪はかなり揺れました!

2018/06/19 (火)  カテゴリー/その他(帰国後の出来事)

オランダで暮らしておられる皆様、
大阪は昨日、非常に大きな地震に見舞われました。
もう、ご存じだとは思いますが…。

私はちょうど、実家(吹田市)に向かって歩いているときだったのですが、
「あれ? 揺れてる?」と思ったと同時くらいに、
物凄く早くて強い揺れ方で、地面が左右に振られるような感じでした。
夫の浮気を問いただす怒り狂った妻が、夫の肩をつかんで、
「一体、どういうつもりよ!! 自分が何をしたのかわかってるの!?」と、
激しく揺さぶるような勢いとでも言いましょうか…。(笑)

地震が起きた時、ゴゴゴゴゴ…というような地鳴りの音ではなく、
あちらこちらから、ガチャガチャガチャガチャと、
食器が割れるような大きな音が響いてきて、
建物の中からは「キャー!」という叫び声も聞こえてきました。
(このガチャガチャガチャガチャという音は、その後の余震でも、
 家の中にいても聞こえるので、食器とは直接関係ないようです)

私は阪神淡路大震災発生当時、東京で暮らしていたため、
こんな大きな地震は初めての経験だったのですが、
両親に言わせると、「今回の揺れは、阪神の時よりも凄かった」ようです。
揺れる時間がほんの数秒だったので、この程度の被害で済みましたが、
あの揺れが1分近くもし続いていたなら、相当な被害だっただろうと思います。

実家に到着してみると、家の中はなかなか悲惨な状況で、
全ての部屋で高い所から物が落ちて散乱していました。
幸い、食器棚が倒れなかったので、割れものはほとんどありませんでした。
さらに、家電も何も落ちず、壊れずに済みました。
ただ、すぐそばに建っているマンションにお住まいの知人宅では、
たくさん食器が割れたとのことでしたので、
きっと家具を置いていた向きと揺れる方向の組み合わせが悪かった場合は、
結構な被害が出てしまったんだろうな…と思います。

私は地震発生時、屋外にいたということもあるとは思いますが、
正直、これまでのような地震に対する恐怖心を抱くことはありませんでした。
6月8日の記事にも書いたように、「一日一生」という考えのもと、
いつ死んでもいいような生き方を実践しているためか、
わりと淡々とこの状況を受け止められました。

避難所生活を強いられたり、食べ物飲み物に困ったり、
トイレに困ったり…というような、避難生活をしているわけでもなく、
ガスも電気も水道もいつも通り使えている状況ですから、
不安にならないのは、当たり前なのかもしれませんが。

まだ、昨日の今日なので、あれが本震なのか前震なのかわかりませんが、
東日本大震災以降、日本列島が地震活動期に入っていると
実感せざるを得ない大きな地震があちこちで起こっているわけで、
とにかく、1日1日、普通に生きていられることに感謝しつつ、
いつ突然に終わりを迎えるかわからない人生を受け入れながら、
与えられた残りの時間を、大切にして生きていきたいと思います。




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2018/06/26 (火)  カテゴリー/本のご紹介

私はここ数年、きちんとヨガをやったことはないのですが、
「呼吸法」については、わりと研究しています。
そして、それに付随する形で、瞑想についても調べています。
今日は、そんな私がとても興味深く読んだ個所を…。

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《「禅」とはディヤーナの日本語訳であって、
 それは「言語による表現の範囲を超えたる思想の領域に、
 瞑想をもって達せんとする人間の努力を意味する」
                   (小泉八雲『異国情緒と回顧』からの引用)。
 その方法は瞑想である。
 しかして、その目的は、私の領解する限りにおいては、
 すべての現象の底に横たわる原理、能うべくんば絶対そのものを確知し、
 かくして自己をばこの絶対と調和せしむるにある。
 かくのごとく定義してみれば、この教えは一宗派の教義以上のものであって、
 何人にても絶対の洞察に達したる者は、現世の事象を脱俗して、
 「新しき天と新しき地」とに覚醒するのである》
ここは、かなり難解な部分です。
「禅」の目的は瞑想をすることであり、
自己を「絶対」と調和させることだ、と言っていますね。
ここで言う「絶対」とは何か。
たとえば、キリスト教において神は絶対でしょう。
神を追求する過程において、人間はそれぞれの環境、
すなわち時間と空間を通して、自己の意識を深化するものです。
つまり、どの宗教に限らず、「絶対」を追求するかぎりにおいて、
人間はそれぞれの環境に基づく内的必然性を通して、
自己の意識を深化するものである、ということなのです。
「絶対との調和」とは、自己の意識を深化する、
すなわち深く考え、寛く感じる心を持つということです。
そうすることで、一段の高みに到達できる、と新渡戸先生は説いています。
(略)

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<< >>で囲まれた個所は、『武士道』からの引用部分。
それに、李登輝氏が解説をしているというところです。
まあ、李登輝氏の解説自体も、相当難解かもわかりませんが。(笑)

私はここ数年、禅寺や坐禅にとても興味を持ち、
宿泊体験とかやってみたいな~って、よく思うようになりました。
小泉八雲の「禅」の説明、とても上手いですよね。わかりやすい。

“「禅」の目的は瞑想をすることであり、 自己を「絶対」と調和させること”
李登輝氏が書かれていたように、「絶対」が「神」であるとするならば、
これは、瞑想を通して、人と神が調和することが禅の目的といえます。
また、聖書にも
「人生の真の目的と目標、神こそそれである」という言葉があります。

“宗教に限らず、「絶対」を追求するかぎりにおいて、
 人間はそれぞれの環境に基づく内的必然性を通して、 自己の意識を深化する”
とあるように、やはり大切なのは、自己の意識を深化する、
つまり、自己を掘り下げるという作業がとても大切なように思います。
その作業を通して、“深く考え、寛く感じる心を持”ち、
その結果、“一段の高みに到達できる”わけです。




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