もう一人の私の誕生

2018/08/01 (水)  カテゴリー/本のご紹介

8月に入りました~!
皆さん、溶けていませんか?(笑)

さて今日も、前回からご紹介し始めたあちらの本から、
印象的だった個所をご紹介したいと思います。

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●もう一人の私の誕生
江戸末期、風外本高禅師という方が、大阪の破れ寺に住んでおられ、
ある日、川勝太兵衛という富豪が人生相談にやってきました。
太兵衛色々と悩みを訴えている。そこへ一匹の虻が飛びこんできました。
立てつけの悪い戸の隙間から飛びこんできた虻は、
自分がここから出ようと思う方向の窓に勢いよくぶっつかり、失神して畳に落ちました。
しばらくするとモソモソと起きあがり、
また同じ窓にぶっつかっては落ちるという愚を、繰り返し始めました。
(略)
「(略)この寺は有名な破れ寺で、窓も障子も破れているし、立てつけもガタガタ。
 どこからでも出てゆくところはあるのに、ここからしか出られぬと思って、
 そこへ頭をぶっつけてはひっくり返り、ぶっつけてはひっくり返り…。
 こんなことをしていたら死んでしまうわいな。
 しかし、かわいそうなのは虻ばかりじゃないの。
 人間もよう似たことをやっておりますなあ」
(略)
この話から二つのことを学んでおきたいと思います。
一つは、虻が「ここからしか出ていけない」と頭をぶっつけつづけている。
角度を変えてごらん。
前ばかり見ていないで、右を、左を、上を、下をと、目をてんじてごらん。
姿勢を変えてごらん。どこにでも出口はあるよ、と語りかけています。
もう一つの学びは、人は悲しみ、苦しみにぶっつかることで、立ち止まり、ふり返る。
どこが悪かったのかとそれまで歩んできた自分をふり返るもう一人の私が誕生します。
虻でしかない自分に気づくためには、虻でない自分の目がそなわらなければなりません。
虻でしかない自分と、虻でない自分との対話です。
(略)

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私、このお話を読んだ時、
本当に「人間って、こんな感じだよね」って、笑ってしまいました。
このアブのような生き方をしている人が(私を含めて)如何に多いことか。

心の悩みを抱えて、辛い自分に埋没してしまっているときって、
自分以外が全く見えなくなってしまっっている、いわゆる「視野狭窄」状態。
辛い状況から抜け出すためには、「この一点」をクリアしなければ…、なんて、
自分で出口はひとつしかないと決めつけ、何とかしてそこから出ようと、
必死でもがき苦しむんだけれど、いつまで経っても出られない。
視点を変えて見れば、他の出口もあるのに、それがわからない。
私自身、そんな時期を過ごした経験があるので、とても共感しました。

そして、視野狭窄に陥っている自分と、もう一人の自分が、
時間をかけて、丁寧に対話を繰り返す作業をし続けた結果、
私は、自分が長年抱え込んでしまった苦しみから逃れられたのです。
「虻でしかない自分に気づくためには、
 虻でない自分の目がそなわらなければなりません」
とありましたが、まさにその通り。
私は、「虻でない自分の目」をどうやって獲得したかと言えば、
大量の本を読むことによって、もう一人の客観的に物が見られる自分と出会いました。

人が人間としての成長をする過程において、必ず悲しみや苦しみ、挫折を経験します。
でも、それがあるからこそ、これまでよりもより高次の視野を獲得でき、
心穏やかに生きる術や知恵を得ていくことができるのだと思います。
どんな辛いことであっても、決して人生にとって無駄なことはないと思います。




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人生の外へ出なければ全体の展望はできない

2018/08/07 (火)  カテゴリー/本のご紹介

いま、ご紹介している本には、本当に大切なことがたくさん書かれています。
今日は、自分を客観視することについて。
是非、ご覧下さい。

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●人生の外へ出なければ全体の展望はできない
(略)
「坐禅とは見渡しのきく高い山へ登るようなものだ」
これは沢木興道老師の言葉です。
瀑布の只中にいたら、そこをくぐり抜けることだけで精一杯。
周囲を見渡すゆとりもあらばこそ、瀑布も自分の姿も見えはしません。
瀑布もその中の自分の姿も、つきはなして眺めて初めて全体の姿が見える。
そのように、自分の人生も、そこに埋没しているだけでは、
幸不幸を追ったり逃げたり、
その中にあって七顛八倒している自分の姿は見えません。
その只中にあってあえぎつつも、
それをつきはなして静かに眺めるもう一人の私の眼が育たないと、
今の一歩をあやまりないものとして踏み出すことはできないのです。
滝の外へ出なければ滝全体を見ることはできないように、
山を出なければ山全体を見ることができないように、
人生の外へ出なければ自分の人生の展望はできません。
人生の外へ出るとはどういうことか。
沢木老師の高弟である、安泰寺の内山興正老師の言葉に思い到りました。
「床の間に棺桶をおいて、のぼせあがったとき、出口がわからなくなったとき、
 その棺桶の中へ入り、そこからふり返って見よ」

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如何でしょうか?
私にとって、今日ご紹介した個所は、本当に共感できたところです。

逆境に立たされているとき、そこから抜け出すことに必死で、
全体像を俯瞰することなどできません。
自分のことだけに埋没し、周りが全く見えなくなってしまう。
そんな状況に陥った経験のある方は、私だけではないでしょう。

今の自分の状況を、突き放して外から眺めて見ているもう一人の自分。
この存在を確立できるかどうか。

著者は内山興正老師の言葉を引用しています。
「床の間に棺桶をおいて、のぼせあがったとき、出口がわからなくなったとき、
 その棺桶の中へ入り、そこからふり返って見よ」

これをそのまま実行できるかといえば、それは無理でしょう。(笑)
つまり、これを比喩だと受け取って考えればいいわけで、
人生に行き詰まった時は、「いつかは必ず自分が死ぬ」ということを確認し、
人生の終末から今を眺めてみることが大切だということだと思います。

以前も、このブログでご紹介した言葉に「メメント・モリ」というのがあります。
「死を思え」という意味の言葉ですが、つまりはそういうこと。
一旦、今自分が生きている人生のど真ん中から、外(死後)へ出てみると、
見えなかった色々なものが見えてくるということです。

私は実際に、この経験を通して、自分の生き方が大きく変わりました。
皆さんも、是非経験して頂ければ…と思います。




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「今はよくない」と気づく

2018/08/13 (月)  カテゴリー/本のご紹介

今日も、私のお気に入りのあちらの本の中から、
印象的だった個所をご紹介します。

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第二章 人生を円相で考える
●よく生きるとは「今はよくない」と気づくこと
(略)
人もし生くること 百年ならんとも
おこたりにふけり はげみ少なければ
かたき精進に ふるいたつものの
一日生くるにも およばざるなり                    
                         友松円諦訳『法句経』

平均寿命が年々数字をのばし、
「後期高齢者」という呼称への可否が話題をにぎわしている今日、
“うかうかと百年生きるより、一日を大切に生きよ”のお釈迦さまの言葉や
次の道元禅師のお言葉に耳を傾けたいものです。

「いたづらに百歳生けらんは、うらむべき日月なり、かなしむべき形骸なり。
 たとい百歳の日月は、声色の奴婢と馳走すとも、
 そのなか一日の行持を行取せば、一生の百歳を行取するのみにあらず、
 百歳の佗生をも度取すべきなり」

「声色の奴婢と馳走す」というのは、
眼耳鼻舌身意の人間の主体の六根のお相手となる色声香味触法の六境のことで、
見たい、聞きたい、食べたい、ほしい、惜しいの欲望が主人公の座に坐り、
その欲望を満足させるために、この私が欲望の奴隷となって走り回り、
一生を虚しく費やしてしまうことです。
そういう歳月を百年生きるよりも、私が主人公となって、
欲をあるべき方向へ、道を求めるという方向へ、
あるいは少しでも世の中の、人のお役に立つ方向へと手綱さばきをし、
たった一日でもよい、道にしたがってあるべきように生きた一日のほうが、
どれほど尊いかもしれない、というのです。
たとえ万劫千生を繰り返そうと、凡夫の思いを先としての流転の人生ならば、
永劫に解脱の見込みは立ちません。
その中、たった一日でも、まことの師に、まことの教えに出会うことにより、
真実の生命に目ざめ、方向転換できたら、生々世々の真の幸せです。
それを「百歳の佗生をも度取すべきなり」とおおせられたのです。

どれだけを生きたかよりもどう生きたかを
みずからに問えと師はのたまいし          俊董
(略)

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ただ、なんとなく日々を生きながらえることで長寿を得るよりも、
その日、その日を、大切に、一生懸命生きよ…ということでしょう。
私もこの考えに賛同し、ここ数年、とにかく与えられた1日を、
丁寧に生きることをモットーにして暮らしています。

「見たい、聞きたい、食べたい、ほしい、惜しいの欲望が主人公の座に坐り、
 その欲望を満足させるために、この私が欲望の奴隷となって走り回り、
 一生を虚しく費やしてしまう」ことをせず、
「欲をあるべき方向へ、道を求めるという方向へ、
 あるいは少しでも世の中の、人のお役に立つ方向へと手綱さばきをし、
 たった一日でもよい、道にしたがってあるべきように」生きたいと願います。

「たった一日でも、まことの師に、まことの教えに出会うことにより、
 真実の生命に目ざめ、方向転換できたら、生々世々の真の幸せ」
とありますが、本当にその通りだと思います。
この出会いを得ずして、一生を終える人のなんと多いことか。

この本の著者が最後に短歌を載せておられますが、
私が大好きな作家である山本周五郎の座右の銘を思い出しました。

「人間の真価は、その人が死んだとき、なにを為したかではなく、
 彼が生きていたとき、なにを為そうとしていたかで決まるのである」

イギリスの詩人、ブラウニングの言葉です。
周五郎の作品には、この考えが底流にある物が多いのですが、
特に「ながい坂」や「虚空遍歴」などの作品が象徴的でしょうか。

結果がすべてではありません。
もちろん、想定していなかった嬉しい結果が出れば尚よし。
でなくても、よし。
とにかく、生きている間、1日1日を丁寧に、目標に向かって、
やるべきことを粛々と続けることが大切なのではないかと思います。




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闇から光へ、人生を転じる

2018/08/19 (日)  カテゴリー/本のご紹介

皆さんも、こちらの本から大切な学びを得られているのではないでしょうか。
今日は、人生をどう見るかによって、幸不幸が決まる…というお話です。
それでは、ご覧下さい。

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第三章 変えてゆくことができる
●闇から光へ、人生を転じる
京都駅で拾ったタクシーの運転手が語りかけてきました。
(略)
「私は高校三年生の三学期に両親を一緒に亡くしました。
 (略)借金はありませんでしたが、一銭の蓄えもありませんでした。
 私の下に五歳の妹がおりました。(略)
 私は五歳の妹を連れ、最小限度の荷物を持ち、安い六畳一部屋を借りて出ました。
 両親に代わって妹を育てなきゃならないと思って、私は夢中になって働きました。
 朝は新聞配達、昼は勤め、夜はアルバイトと目茶苦茶働いて、
 二十二、三歳のときには、安いアパートを買うほどの金は作りました。(略)
 狭い家で育ったから妹は整理の名人になり、
 今大きな家にご縁をいただいておりますが、きれいに整頓されております。
 考えてみましたら私なんか、もし両親が元気でいてくれたら、
 今ごろ暴走族か突っ張り族か、ろくな人間にしかなっていなかったと思います。
 もし両親が死んでくれても、金を残してくれたら今の私はなく、
 また妹がいなかったら淋しくてぐれていたでしょう。
 両親はいない、金はない、幼い妹がいる。私は本気にならざるを得ませんでした。
 私を本気にしてくれ、一人前の大人にしてくれ、男にしてくれたのは、
 両親が死んでくれたお蔭、金を残してくれなかったお陰、
 家主が追い出してくれたお蔭、幼い妹をつけてくれたお蔭と思い、
 毎日両親の位牌に感謝の線香をあげております。
 何もかも私を一人前の大人にするためのおはからいと感謝しております。(略)」
(略)
お釈迦さまは、この世の中には四種類の人がある、と説かれました。
「闇から闇へゆく人、闇から光へゆく人、光から闇へゆく人、光から光へゆく人」と。
人生の幸、不幸を、光とか闇という言葉で表現することができるでしょう。(略)
この四種類の人の話から二つの教えを学ぶことができる、と、
唯識学の泰斗の太田久紀先生は語ります。
一つは「人生、変えてゆくことができる」ということ。(略)
二つめは「変えてゆく主人公は私であり、
その私の今日只今をどう生きるかにかかる」ということです。(略)
人生は絶対に代わってもらうことも助けてもらうこともできません。
私の人生をどう築きあげてゆくか、どう変えてゆくかの主人公は私でしかないのです。
心して自分の人生を光あるものへと転じてゆきたいと思います。

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人生には、何度か逆境に立たされる時があります。
これでもか! これでもか! と、この世的な目で見れば、
どう考えても「不幸」としか思えない災難に襲われ続けることもあります。
でも、そこでめげてしまう人もいれば、「なにクソ!」と頑張ることができる人もいる。

今、自分が置かれている状況を、単に嘆き続けるだけで一生を終ってしまうのか、
それとも、一発逆転を狙うのかは、自分次第なのです。

自分の人生の舵を他人に預けて、思いもよらないところにゴールした後で、
「なんでこんなところに連れてきたんだ!」と、文句だけいう人がいます。
自分で自分の人生の舵を握らないということは、人生を放棄したということ。
だから、どこに連れていかれても、本来は文句など言えないのです。
自分でゴールを決めることもできず、他人に舵を預けた自分の責任なのです。

私たちは、自分の人生に責任を持たねばなりません。
人生が悪い方へ進んでいると感じれば、舵をよい方向へ切らねばならないのです。
やるべきことをやらず、不平不満だけを口にし続けるのは、
人として如何なものかと思います。

自分の人生は、自分だけのものです。
誰も責任など取ってくれません。
自分に残された人生をどのようなものにするかは、自分自身にかかっているのです。




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ほんとうの幸せとは

2018/08/25 (土)  カテゴリー/本のご紹介

現在、ご紹介中のこちらの本。

泥があるから、花は咲く


「ためになるわ~♪」と思って読んで下さっていますでしょうか。
今日もとっても良いお話しなので、少し長いですがご紹介します。

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第五章 ほんとうの幸せとは

●持ち物に目をうばわれず、持ち主である私の生き方を正す

人生は「幸せを求めての旅」といってもよい一面があるでしょう。
何を幸せとするか。
択ぶ眼の深さ、高さで、
その人の人生は決まるといってもよいのではないでしょうか。
お釈迦さまがご在世の頃の話です。
ビンズル尊者とウダエン王は幼なじみでした。
一方はすべてを捨てて出家され、お釈迦様のお弟子となり、
ご修行の末、ビンズル尊者と呼ばれるような聖者となられました。
一方はいくつかの国を征服して、ならびなき大王になられたのです。
あるとき、ビンズル尊者が故郷のコーサミーを訪れ、
林中で坐禅をしているということを伝え聞いたウエダン王は、
多くの家来や女官をしたがえ、美々しく王としての装いをととのえて尊者を訪ね、
こういいました。
「私は今、諸国を征服して、その威徳の盛んなことは天日のごとくである。
 頭には天冠をいただき、身には瓔珞をまとい、
 多くの美女たちも左右にかしずいている。どうだ、羨ましくないか」
尊者はたった一言、「吾に羨心なし」と答えられました。
「ちっとも羨ましくないよ」というのです。
ビンズル尊者とウダエン王と、幸せの中身が大きく違っていることに気づきます。
ルソーは『エミール』の中で、
「人間は誰でも、王者であろうと貴族であろうと大富豪であろうと、
 生まれる時には裸で貧しく生まれて来、
 そして死ぬ時にも、裸で貧しく死んでゆかねばならない。
 このしばらくの中間を、さまざまな着物を着る。
 女王のような華やかな着物、乞食という衣装、僧服、金持ち、社長、美人、
 さらには主義とか自惚れとか劣等感とか。すべて衣装。
 ほとんどの人がこの衣装にばかり目を奪われて一生を終わる。
 すべてを脱ぎ捨てて裸の私自身をどうするかを、
 まったく忘れてしまっている」と語っています。
裸で生まれて、裸で死んでゆく。
そのしばらくの間、小さいときはガラガラの玩具ぐらいで満足していたものが、
成人するほどに自動車がほしくなり、異性がほしくなり、
金がほしくなり、名誉がほしくなる……。
年齢と共にほしくなるものが変わり、手に入れたといって酔っぱらい、
のぼせあがり、失ったといって落ち込んだりしながら一生を終えてゆきます。
着がえてゆく衣装、持ち変えてゆく持ちものにばかり心うばわれ、
持ち主である私、衣装の着手である私自身の、それも今日只今をどう生きたらよいか、
などということは思いつきもしないままに。
北海道の浄土真宗のお寺の奥さまで、癌の転々移のために、
四十七歳の若さで逝った鈴木章子さんの言葉に耳を傾けてみましょう。
「病院で気づかされたことは、
 お金も、肩書も地位も、何も役に立たないということでした。
 ベッドで横になった、まるごと人間がそこにいるだけです。
 そしてその人間の心の中に、何がつまっているかということが
 一番問題なんだということが、はっきりわかりました」
(略)いかなる名誉も財産も病や死の前には、
まったくの無力であることが思い知らされたのです。(略)
ウダエン王が幸せと思い、酔っぱらい、のぼせあがっている中身は、
財産や名誉などのいわゆる持ち物に過ぎないのであり、
いざというときおいていくものばかり。
ビンズル尊者はそういう持ち物への酔いが覚めていたからこそ、
「吾に羨心なし」とさわやかに答えることができたのです。
(略)

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「人間は誰でも、生まれる時には裸で貧しく生まれて来、
 そして死ぬ時にも、裸で貧しく死んでゆかねばならない」

「着がえてゆく衣装、持ち変えてゆく持ちものにばかり心うばわれ、
 持ち主である私、衣装の着手である私自身の、それも今日只今をどう生きたらよいか、
 などということは思いつきもしない」

「お金も、肩書も地位も、何も役に立たない」
「人間の心の中に、何がつまっているかということが 一番問題」

「いかなる名誉も財産も病や死の前には、 まったくの無力である」

本当に、その通りだと思います。
この世に置いていかなければならないもののために、
私たちがどれほど人生を無駄にしているのか。

死んだ時、あの世へ持って行けるもの、
つまり、自分の中に何を詰めるのか…ということが重要なのです。
人生のゴールに向かって、この世限りのことに執着するのではなく、
あの世へ持って行けるもののために、自分を磨きたいと思います。

これにて、こちらの本のご紹介は終わりです。
本当に、とっても素敵な本でしたので、是非全編を読んで頂きたいと思います。




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