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2013-11-29 (Fri) 14:30

初めてのサイパンーその6

今朝、大阪は初雪が降ったようです!
なんと、11月に初雪を観測するのは、24年振りだとか。
外出するときは、オランダにいた頃と同じとまではいきませんが、
ガッツリ着込んで、風邪をひかないように気をつけねば。

さて、そんな寒くなった大阪からですが、
今日は久し振りに、温かい“サイパン旅行記”の続きを…。

マニャガハ島をぐるっと1周お散歩した後は、
いよいよ、サイパン旅行のメインとして本当に楽しみにしていた、
自然水族館“海に潜って、熱帯魚を見よう!”の時間♪
PC030700a.jpg
遊泳可能エリアは、こちら。
意外と、泳げるエリアは狭いのですが、とにかく水が綺麗!!
視力が良くない私は、現地で普通のシュノーケリング道具を借りても、
楽しみにしていた、“泳ぐ熱帯魚たち”の姿が見えないので、
日本で度入りのゴーグルを購入して、素潜りをする予定で来ました。

午前中は引き潮だったのか、結構波も穏やかで水深もそれほど深くなく、
浅瀬でも熱帯魚が泳ぐ姿が見られ、安心して海に潜ることが出来ました♪
そして、これまで楽しんでいたホテル前の海とは比べ物にならないほど、
たくさんの種類と数の熱帯魚が目の前に!!!!
熱帯魚の代表格、チョウチョウウオも勿論いましたよ~☆
それと、バラクーダとよばれる、ちょっと大きな魚が群れて泳いでいるのは
少々怖かったのですが(汗)、それ以外は本当に可愛くて楽しかったです♪
水族館の水槽の中に入った気分で、熱帯魚たちとの触れ合いを堪能~♪♪♪
(水中カメラなんて持っていないので、写真はございません…汗)
体中がしわしわになってふやけるまで、素潜りを楽しみました。

その後、持ってきたランチをヤシの木陰で食べて、
少々休憩してから、再び島内1周へ出発!
PC030704a.jpg
島の周りには、こんな綺麗なビーチがたくさん!
本当に、うっとりするほど素晴らしい風景です。

青い空、碧い海、白い雲、白い砂…。
PC030717a.jpg
ああ、これぞまさに、南の島~~~♪ パラダイス~~~♪♪

遊泳可能エリア外でも、つい海に入ってみたいという衝動に駆られます。
PC030689a.jpg
(でも中には、この場所でもシュノーケルを楽しんでいる人たちが、
 数名おられましたよ。何かあっても、自己責任ってことなのでしょうが)

さて、島内の砂浜の砂、どんな感じなのかご紹介しましょう!
PC030690a.jpg
こんな感じです。少し、ジャリジャリした感じでしょうか。
珊瑚や貝が砕けたものが、砂になっていると思われます。

この砂浜で見つけたもの。
PC030691a.jpg
相当アップにしていますが、わかりますか?
何かが、砂の中に隠れています。

答えは…
PC030694a.jpg
と~~っても小さなカニでした~♪ よく見つけたでしょ?(笑)
因みに、このごっつい手は、主人の手ですよー。

さて、サイパンといえば、
戦争の悲惨な歴史を思い出される方も多いと思います。
前回、今回とご紹介しているこのマニャガハ島は、
戦争当時、「軍艦島」と呼ばれ、日本海軍の要塞となっていました。
そのため、島内にはいくつか当時をしのばせる物が残されています。
PC030723a.jpg
こちらは、砲台跡。
桟橋を降りて、遊泳可能エリアに向かう途中にあります。

別の角度から。海に向かって。
PC030675a.jpg
私たちが平和を享受し、サイパンに観光で遊びに行けるのも、
この場所で、日本のために命を掛けて戦って下さった方々のおかげなのだと、
英霊の皆さんに心から感謝を捧げました。

こちらは、別の砲台。
PC030722a.jpg
先ほどご紹介したものよりも、相当朽ち果てた感じがします。
これらの他にも、島を回っていると、
海の中に「高角機銃」が沈んでいるのも確認できます。

「サイパン島の玉砕」については、ご存知の方も多いとは思いますが、
私が拝読しているブログ「ねずさんのひとりごと」でも、
取り上げておられる記事がありましたので、この記事の最後にご紹介しておきます。
大変長いものですので、追記【続きを読む】に書かせて頂きました。

島内散策を終え、午後からも再度「素潜り熱帯魚見物」を楽しみました♪
とはいえ、満ち潮だったのか、波も結構強く感じましたし、
水深も随分深くなっていて、午前中よりは身の危険を感じながらでしたけど。(汗)
そして、いよいよ島を離れる時間に。桟橋へ向かいます。

遠くに、遊泳エリアを望める桟橋からの風景。
PC030732a.jpg
それにしても、本当に海が美しい…。

すっごく、すっごく名残惜しいのですが、船に乗り込みます。
PC030733a.jpg
どこまでも碧い海よ、さようなら~!ありがとう~~~!!

とうとう、船が動き始めました。
PC030737a.jpg
ああ、島が遠ざかってゆく~~~。(涙)
もっともっと、ゆっくり居られたら良いのに…。残念。

PC030741a.jpg
素敵な経験を、素敵な体験を、本当にありがとう~~~♪♪
マニャガハ島、また来るね~~~!!!(ただの願望)

PC030743a.jpg
…ということで、夢のような風景、夢のような時間ともこれでお別れ。
今回のサイパン旅行で一番楽しみにしていたマニャガハ島。
お天気も最高で、本当に素晴らしい思い出が作れました♪
本当に素敵な場所だったので、機会があれば是非また訪問したいと、
心から思うPOPULAなのでした~☆




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<サイパンの玉砕戦>
  【続きを読む】をクリックしてご覧下さい。


ブログ「ねずさんのひとりごと」より転載

*****************************

サイパンの玉砕戦について書いてみようと思います。
昭和19(1944)年6月15日から7月9日にかけての戦いです。

ロバート・シャーロットという従軍記者が書いた
「死闘サイパン」という本があります。
その本の中に、上陸第一日目の午後遅くに
シャーロット自身の目の前で起こった出来事が書かれています。

~~~~~~~~~~~~
チャラン・カノアの未完成の滑走路の端で、
その夜のためにタコツボをせっせと掘っていると、
突然けたたましい叫び声が聞こえた。

「あの穴のなかに日本兵がいるぞ!」
そう叫んだ海兵隊員たちは、私がタコツボを掘っているところから
約3メートルばかりはなれた、丸太でおおわれた砂丘の方を指さした。

その声が終わるやいなや、穴にひそんだ一人の日本兵が、
われわれの頭上に乱射をあびせながら飛びだしてきた。
彼はそのとき銃剣で武装しているだけだった。
一人の海兵隊員が、この小男の日本兵を目がけて手榴弾を投げつけた。

その日本兵は痩せていて、身長1.5メートルにも足りなかった。
彼は爆裂によって吹きたおされた。
すると、この日本兵はふたたび立ちあがって、
手にしていた銃剣を、敵に向けないで自分の腹に、差し向けた。

そして彼は、自分で腹を掻き斬ろうとしたが、まだハラキリをはじめないうちに、
海兵隊の誰かが撃ち倒してしまった。
そのため、だれも切腹をおわりまで見られなかった。

しかし、日本兵はじつに頑強であった。
彼はまたもや起きあがった。

カービン銃を持った海兵隊員が、この日本兵にまた一発、撃ちこんだ。
それからさらに三発も撃った。

その最後の一弾は、この日本兵の真っ黒な頭の皮を3センチばかりはぎとった。
彼は苦しみでのたうちながら死んだのである。
~~~~~~~~~~~~~

いまとなっては、このときに勇敢な戦いをした日本人が、
誰であったのかはわかりません。
水際作戦のために、海岸沿いに掘った穴のなかで、
米艦隊からの猛爆をじっと堪え、おそらく戦友たちは全員爆撃にやられて
おなくなりになったのでしょう。

彼は、米兵たちが上陸してくるのを、タコつぼの中でじっと待ち、
夕方の薄闇を待って、たったひとりの斬り込み突撃を図りました。
当時としても、身長150cm足らずというのは、かなり小柄です。
しかも、痩せこけていました。
艦砲射撃のために、体中に大怪我をしていたかもしれません。

シャーロットは、「乱射をあびせながら飛びだしてきた」と書いています。
ですが当時の日本人が持っている銃は、
速射できるサブマシンガンではありません。三八式歩兵銃です。
明治三八年制のこの銃には、米軍の銃のような速射能力はありません。
一発ごとに、ガチャンと弾をこめる。

なんと幼稚で古臭い銃を使っていたのかと、笑う人もいるかもしれません。
しかし、軍の装備にはその国の哲学が反映されます。
美意識といった方が適切かもしれません。

ハンディタイプの歩兵用機銃は、5.5ミリ弾を用います。
連射するから反動を抑えるために、弾が小さくなる。
そして弾が小さい分、敵兵を容易に殺さず、怪我を負わせるにとどまります。

戦場は過酷なところです。平時とは違います。
軍にとって、死亡した兵はそれまでですが、戦傷者は救助しなければなりません。
そして戦傷者の増加は、軍の機動力を損ね、軍の敗北を招きやすくします。
悲しいことだけれど、それが現実です。
しかも大怪我をした兵士の多くは、結果としてはほとんど助かりません。
長く、痛い思いをして苦しみ抜いたあげく死亡します。

これに対し、三八式歩兵銃は、6・5ミリ弾を用います。
この弾は殺害力が大きい弾丸です。
当たった相手は、まず即死します。

卑怯な真似をして敵に余計な負担をかけさせない。
戦う時は健康な者同士で、正々堂々と戦う。
敵兵を殺すときは、一気に殺して、敵兵を苦しませない。
残酷なようだけれど、戦地においては長く苦しむよりは、
即死した方が、撃たれた本人にとっては、幸せなことといえようかと思います。
しかも三八式歩兵銃は、連射や速射には向かないけれど、命中率が極端に高い。

敵軍に対し、正々堂々、最小の被害で戦意そのものを削ぎ、降伏に導く。
古臭いとか、連射力がないとか、後世の人たちからはボロカスに言われる
三八式歩兵銃だけど、そこには、いかにも日本人らしい明確な哲学があります。

シャーロットが目撃した日本人が持っていたのは、その三八式歩兵銃です。
おそらく、タコつぼから這い出した日本人の兵隊さんは、
歩兵銃で二発撃ち、二人の米兵を倒し、そのまま銃剣突撃して、
敵をひとりでも多く倒そうとしたのでしょう。

身長わずか150cm、敵の米兵は、190cm台です。
オトナと子供くらいの体格差があり、しかも、敵は多数です。

たったひとりでも、彼は戦いました。
手榴弾で吹き飛ばされても立ち上がりました。
重傷を負い、万事休すと、腹切って戦友のもとに行こうとすることも許されず、
銃で撃たれて転倒し、さらに3発を撃ち込まれ、
頭の皮をはぎとられて(顔の傷はものすごい血が流れます)、
そして「苦しみのうちに死んだ」と書かれています。

当時、サイパン島に立て篭もった日本の兵隊さんたちは、
その戦いに勝ち目がないことは、とっくに知っていました。
場所は島、敵は海上を征圧し、圧倒的な火力で
陸、海、空から攻撃をしかけてくる。
誰がどうみても、不利な状況であり、
全滅させられるかもしれないくらいのことは誰だってわかります。
彼らはそれでも降伏などせず、戦いました。

ひとつには、サイパンに多くの民間人がいるということです。
その民間人に対してさえも、米軍は容赦なく
艦砲射撃やら航空機による爆撃を行い、しかも上陸すれば
服を着た兵であろうが、民間人の女子供であろうが、
まったく問答無用で殺戮をしかけてきたのです。
ならばもはや戦うことしか選択肢はありません。

二つめには、サイパンを奪われることは、
サイパンから日本本土に向けての空襲を許すことになります。
そうなれば、祖国にいる父や母、幼い兄弟姉妹、友人たち、
大好きだった彼女たちが、同じように無差別に蹂躙され、殺されてしまう。
ならば、それを防ぐためには、一日でもいい。
戦って、戦って、敵をこの島に釘付けにするしかない。

みっつめには、戦いに「勝つ」ために戦いました。
敵の圧倒的な火力の前に、全滅させられるかもしれない状況です。
それでもみんなで、「勝つため」に戦いました。
それはどういうことなのでしょうか。

スポーツ競技でも、碁や将棋なででも、「戦い」というのは、
常に「勝ったり負けたり」の連続です。
早い話がサイパンの戦いでも、あるいは沖縄戦でも、極地においては、
日本側が敵を圧倒していた(つまり勝っていた)場面は多数あります。
戦いは、小さな戦いの連続が大きな戦い全体の結果に影響を及ぼします。
サイパンでの戦いが、仮にそこで全滅したとしても、
自分たちが戦って戦って戦い抜いた先に、
大東亜戦争全体を通じての大義の実現ができたならば、
それは戦争目的を達成した、といういことになります。

サイパンを攻めて来たのは、米軍です。
けれど米軍の戦争目的は、サイパンの占領が最終目的ではありません。
同様に、日本におけるサイパン島も、
大東亜戦争全体を通じた戦いのための、ひとつの局地戦です。

当時の世界は、2013年のいまの世界と異なります。
白人の植民地主義、覇権主義が世界を覆い、
有色人種は「人間」とさえ認識されない、
ただの「ヒトモドキ」と認識された時代です。
そして500年続いた白人植民地支配が世界全体を覆いつくし、
その中で実際に有色人種を現地支配していた人々が、白人貴族であり、
世界の人類の中の特権階層をなしていた時代です。

日本人は、白人種ではありません。
私たちは、肌の黄色いカラードです。
世界に、最後に残ったカラード民族が、
世界を支配する白人たちに戦いを挑んだのです。

彼らは、あとに続くことを信じました。
自分たちが死んでも、世界の民衆が立ち上がり、自由を手に入れる。
自分たちの世界を取り戻す。奴隷として支配される状態から抜け出す。
そのためには、その緒戦を戦う日本は、
どこまでも清く正しく勇敢であり続けなければならない。
みんながそのように考えていました。
それがあたりまえの常識でした。
だからこそ、指揮官たちが切腹してお亡くなりになられたあとも、
総員突撃を敢行しました。
なぜなら、人には自分の命よりも大切なものがあるからです。


米軍が上陸した初日、夜襲をしかけようとする日本軍に対し、
米軍は休みなく照明弾を打ち上げ、一晩中、
海岸一帯を真昼のように明るく照らし出して防御を図りました。
日本軍は夜襲によってなんとか頽勢を挽回しようとするけれど、
真昼のような明るさでは、夜襲の効果も半減してしまいます。

それでも我が軍は、夜襲を敢行しました。
米軍の絶え間ない照明弾によって、あたりは真昼のように明るい。
その中を圧倒的な米軍の火力を前にしながら、
なんとか白兵戦に持ち込もうと突撃攻撃を行い、
その日のうちに日本側の2個大隊と、横須賀第一陸戦隊がほぼ全滅しています。
日本軍は、島の北部へ退却しました。

翌16日、米軍第二七歩兵師団が上陸し、
日本側の飛行場に向かって進撃してきました。
途中には、サトウキビ畑が広がっています。
日本側は、このサトウキビ畑にひそみ、米軍を襲いました。
やわらかいさとうきびでは、姿は隠せても、敵の猛射は防げません。
ですからこれは、捨て身の戦法でした。

米軍は火炎放射器で、畑をまるごと焼き払いました。
日本兵が、体中火だるまになって飛び出すと、それを全員で撃ち殺しました。
火が燃える。
日本人が飛び出す。
よってたかって撃ち殺す。

射撃する米兵にめがけて、火だるまになった日本兵が立ち上がって銃撃する。
米兵が撃ち殺される。
この日いっぱい、夜半までそうした戦いが繰り広げられました。

この日の夜も、日本側は、飛行場奪回のために
戦車第九連隊(44輌)を先頭にたてた8000名で、米軍に総攻撃をかけました。
しかし、数十発連続して撃ったら、砲身が真っ赤に焼けて、
撃てなくなる日本側の砲門に対し、米軍は、一時間に野戦砲800発、
機銃1万発という猛射で、対抗します。
これにより日本側守備隊8000名が、ほぼ全滅してしまう。

18日の時点で、日本陸軍サイパン守備隊の斎藤義次中将は、
飛行場を完全に放棄します。
けれどそのために、南部に残された日本軍が完全に孤立してしまいます。

ここまでの攻防戦で、ひとつ触れておかなければならないことがあります。
それは大本営の晴気誠(はるきまこと)陸軍参謀のことです。

サイパンにおいて、敵の上陸を水際で食い止めるようという作戦は、
大本営の晴気誠陸軍参謀によるものです。
しかし、敵の圧倒的な火力の前に、結果として敵上陸を許し、
さらに敵上陸後3日間の戦いは、日本側の敗退と多大な兵力の損耗に終わっています。
そもそも水際作戦のために、日本軍の陣地、火力は海岸付近に集中していたし、
これが敵の艦砲射撃や空襲の的にもなってしまっていたのです。
このため守備隊は早々に壊滅してしまいました。

水際作戦を考案した大本営の晴気参謀は、この作戦の責任を感じ、
自らサイパンへ行って玉砕戦を行いたいむね、志願しました。
けれど、いまさらひとりの参謀が行ったところでどうなるものでもないし、
晴気参謀を送り届けるために損耗する兵力の方が、逆に高くついてしまいます。
さらに有能な参謀を失うことは、日本としても避けなければならないことです。
志願は、却下されました。

しかし、晴気参謀は、このときの作戦の失敗を、ずっと胸に抱き続けました。
そして、もはや水際では防衛戦はできないと、この後の作戦では、
すべての作戦において、敵を内陸部に誘い込んでの抵抗戦に切り替え、
米軍の損耗を増やしました。

そしてすべての戦いに、頭脳と智慧の限りを尽くした晴気参謀は、
終戦を迎えた昭和20年8月17日、それまでの戦いの全責任をとって、
大本営馬場の上にある大正天皇御野立所に正座し、
同期生に介錯を依頼して古式に則って見事、割腹自決を遂げています。

晴気少佐は、8月10日に遺書を先にしたためています。
割腹は、覚悟の上のものだったと推察されます。

~~~~~~~~~~~~~
戦いは遠からず終わることと思う。
しかして、それが如何なる形に於て実現するにせよ、
予はこの世を去らねばならぬ。
地下に赴いて九段の下に眠る幾十万の勇士、戦禍の下に散った人々に、
お詫びを申し上ぐることは、予の当然とるべき厳粛なる武人の道である。

サイパンにて散るべかりし命を、今日まで永らえて来た予の心中を察せられよ。
武人の妻として、よくご納得がいくことと思う。
しかして、予の肉体は消ゆるとも、我が精神は断じて滅するものにあらず。
魂はあく迄皇国を護持せんのみ。
予はここにこの世におけるお別れの言葉を草するにあたり、
十年間、予と共に苦難の途を切り抜け、
予が無二の内助者たりし貴女に衷心より感謝の意を捧ぐ。

又、予は絶対の信頼を以て、三子を託して、
武人の道に殉じ得る我身を幸福に思う。
然るに、夫として、又父として物質的、家庭的に、
何等尽すことを得ざりし事を全く済まぬと思う。

今に臨んで、遺言として残すべきものは何ものもない。
予が精神、貴女が今後進むべき道は、予が平素の言、
其の都度送りし書信に尽く。
三子を予と思い、皇国に尽す人間に育ててもらえれば、
これ以上何もお願いすることはない。
三子には未だ幼き故に何事も申し遺さぬ、物心つくに伴い、
貴女より予が遺志を伝えられよ。
予がなきあと、予が残したる三子と共に、
更に嶮しき荊の道を雄々しく進まんとする貴女の前途に、
神の加護あらんことを祈る。

予が魂、また共にあらん。

昭和二十年八月十日記
~~~~~~~~~~~~~
なんとかしてサイパン島で戦う兵士達、
および被災している民間人たちを助けようと、東条英機首相は、
米艦隊の重包囲をおして救援を差し向けようと聯合艦隊に命じ、
「あ号作戦発動」を発令します。
なんとしてでも、救援を差し向けようとしたのです。

けれど作戦のために出撃した日本側機動部隊は、
マリアナ沖で敵の物量の前に大敗を喫し、
18日から19日にかけてのたった2日間で、
艦載機400機を失うという大損害を招きます。
そして帝国海軍航空部隊はこれによって完全に制空権を失ってしまう。

こうしてサイパンにいた3万の日本軍は、
開戦から9日目の6月24日の時点では、重傷者ばかり、
わずか6000名が残るのみという状況になってしまいます。
守備隊の斎藤義次陸軍中将は、ここで海岸防備体制から、
作戦指揮を籠城戦に切り替え、
島の中部の山岳地帯にあるタポチョ山に防御線を敷きます。
洞窟を利用した抵抗戦に切り替えたのです。

この斎藤中将の作戦指揮は、
大本営の当初の指揮とはまるで異なるのものでしたが、サイパンにおいて、
この時点でもっとも有効な防衛手段となりました。
山岳地帯に籠城して戦う日本軍の前に、米軍のサイパン島攻略隊は、
20日以降、まるで進撃が進まず、
死傷者ばかりが続発するという事態になってしまったのです。

この米軍の戦闘の模様は、ジャーナリスト達によって、
逐一米国本土で報道されていました。
その結果、米国本土では世論が沸きたち、大部隊によって
「楽勝」だと宣伝していた米軍に対し、世論の非難が集中します。
このため米軍は、攻撃手であった第27師団長の
ラルフ・スミス少将を更迭しています。

この時点で、日本側に残っていた兵力は、わずか6千名です。
しかも、食べるものさえろくになく、弾薬も乏しい。
加えて、普通なら瀕死の重傷患者として病院のICUで絶対安静を
言い渡されるくらいの状態になっている兵隊さんたちです。
それがうなるほどの火力を備え、日本の11倍の大兵力を持ち、
空と海からも援軍を得ていた米軍上陸部隊に対して、
島中央部で互角の戦を行ったのです。
島の守備隊の敢闘精神や、讃えるべしです。

しかし3日間の激しい戦いの末、空爆によって防衛ラインを破壊され、
火炎放射機によって洞窟を焼かれた日本は、6月27日には、
ついにタッポーチョ山を米軍に占領され、島の北側にあるサイパン最大の街、
ガラパン市街に逃れる他なくなります。

ガラパンは、市街です。
民間人が多数います。
民間の施設もあれば、中立的医療施設もある場所です。

こうした市街戦を行う際は、本来なら、
ここでも民間人の避難のための警告と避難のための時間を充分与えること・・・
それがハーグ陸戦条約に定められた国際ルールです。
けれど米軍は、容赦なくガラパン市街を空襲し、艦砲を撃ち込み、
陸戦隊によって銃撃を加えました。

このため2万人の民間人がいるガラパン市街では、
必死で民間人を守ろうとする日本軍と、民間人、軍人の区別なく
容赦ない攻撃を加える米軍との間で、
6月28日からなんと5日間にわたる激戦が繰り広げられることになります。

そのガラパンもついに墜ち、日本軍と民間人たちが
ついにサイパン島最北部にあるマッピ岬まで逃れました。
しかしその時点になっても、ガラパンの街の中の倒壊した家屋の中には、
多数の日本兵が隠れ、陸続と侵攻してくる米軍を撃ち、
手榴弾を投げ、銃剣で刺し、米兵をその場に釘付けにしていました。

ここで、サイパンにいた民間人について触れておきます。
「米軍迫る」との情報に基づいて、実はサイパンでは、
軍が事前に民間人の疎開を勧奨していたのです。
米軍が来る前に、なんとかして民間人を先に避難させようとしていました。

このため、サイパン戦がはじまる前の3月3日に、
「あめりか丸」と「さんとす丸」、
5月31日には「千代丸」が島民を満載して出港しています。

ところがこの船は、疎開用の非武装船の旗を掲げていたにもかかわらず、
米軍の潜水艦によって撃沈されてしまうのです。
あっというまの沈没です。
乗員は全員、行方不明(死亡)しています。

そんな状況のもとでは、どうせ死ぬくらいなら、
兵隊さんと一緒に島に残って、なんでもいいからお手伝いしよう。
そう思うのが人情というものです。

実際、島に残留した民間人2万人の日本人は、
最後まで日本軍を信じ、ガラパンを失ったあとも、日本兵について
島北部にあるマッピ岬まで逃れてきていました。
一方で、米軍に拿捕された民間人も多数います。

その人たちについて、サイパンの戦いに従軍した
田中徳祐陸軍大尉(独立混成第四七旅団)が、次の目撃談を残しています。

~~~~~~~~~~~~~~
米軍は、拡声器をいくつもすえつけ、一日中、
「米軍は虐待しません。米軍によってよい待遇が受けられます。
みなさん投降してください」と呼びかけた。
しかし、その呼びかけを信じて洞窟から出てきた婦女子は、
全員が素っ裸にされ、数台のトラックに積み込まれた。
「殺して!」「殺して!」の絶叫を残してトラックは走り去った。

滑走路に集った老人と子供の周りにはガソリンがまかれ、火がつけられた。
たちまち阿鼻叫喚のちまたと化した滑走路。
我慢ならず我兵が小銃射撃をしたが、米軍は全く無頓着に蛮行を続けた。
火から逃れようとする老人や子供を、米兵はゲラゲラ笑いながら
火の中へ蹴り飛ばしたり、銃で突き飛ばして火の中へ投げ入れた。

二人の米兵は、草むらで泣いていた赤ん坊を見つけると、
両足を持ってまっ二つに引き裂いて火中に投げ込んだ。
「ギャッ!」といふ悲鳴を残して蛙のように
股裂きにされた日本の赤ん坊とそれを見て笑う米兵士。

こんなに優勢な戦闘にも拘らず、
米軍は毒ガス弾(赤筒弾)攻撃まで仕掛けてきた。
マッピ岬では、岩の間に一本の青竹を渡し、
それに裸にされて股から串さしにされた婦人を見た。
自分と同じ洞窟に居た兵士や住民が、
五体をバラバラに切り刻まれて倒れているのを眼前に見た。
~~~~~~~~~~~~~~~

結局、日本側は、この時点で生き残った少数の兵隊さんと、
2万人の民間人が、マッピ岬のある島の北端に押しこめられました。

洞窟の外では、米軍の砲弾が炸裂し、走り回る戦車のキャタピラ音、
機銃の掃射音、火炎放射機の焦げた油の臭い等で、
この世のものとは思えぬ惨状がくりひろげられています。
逃げのびる日本兵と民間人たちには、女子供老人の区別なく、
水も食べ物もない飢えとの戦いが何日も続いています。

7月6日、日本軍最期のときを迎えて、南雲中将、斉藤中将以下
陸海軍の最高首脳は地獄谷と呼ばれる司令部壕内で、
敗戦の責任をとって、自決します。

このときの模様です。
南雲海軍中将は、次のように訓示を行いました。

=======
サイパン全島の皇軍将兵に告ぐ。
米鬼進攻を企画してより茲に二旬余、在島の皇軍陸海軍の将兵及び軍属は、
克く協力一致善戦敢闘随所に皇軍の面目を発揮し、
負託の任を完遂せしことを期せり。
然るに天の時を得ず、地の利を占むる能はず。

人の和を以って今日に及び、
今や戦ふに資材なく、攻むるに砲熕悉く破壊し、戦友相次いで斃る。
無念、七生報国を誓ふに、而も敵の暴虐なる進攻依然たり。

サイパンの一角を占有すと雖も、徒に熾烈なる砲爆撃下に散華するに過ぎず、
今や、止まるも死、進むも死。
死生命あり、須く其の時を得て、帝国男児の真骨頂を発揮するを要す。

余は残留諸子と共に、断乎進んで米鬼に一撃を加へ、
太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。
戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』勇躍全力を尽して
従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし。
=======

このときに立会った陸軍参謀によれば、7月6日午後10時、
司令部にて斎藤義次陸軍中将が中央に、南雲忠一海軍中将が右に、
井桁敬治陸軍少将が左に正座し、
日本の方角を向いて宮城遥拝を行ったあと、割腹。
同時にそれぞれの専属副官が後頭部を撃ったとのことです。

南雲中将が、腹に刃を突き立て、斬り割いているとき、
副官は「よろしうございますか」と声をかけたそうです。
南雲中将は、従容として「どうぞ」と答えられたといいます。
斎藤陸軍中将がこのとき32歳、南雲海軍中将が享年57歳でした。

陸海二人の将官を失った守備隊本部から、この日2つの命令書が出されました。
命令書は謄写版で印刷され、壕の外を通る将兵に手渡されています。

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【命令書1】

今や止まるも死。進むも死。
人の死生はすべからく、その時を得て、帝国男児として本懐なり。
今ここに米軍に一撃を加え、太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋めんとす。

戦陣訓に曰く「生きて虜囚の辱めを受けず」。
勇躍全力を尽くして従容として悠久の大儀に生きるを悦びとすべし。
ここに将兵とともに聖寿の無窮、皇国の弥栄を祈念しつつ敵を索め進発す。続け。

【命令書2】

サイパン守備隊は先に訓示せるところに随い、
明日7日、米鬼をもとめて攻勢に前進し、
一人よく十人をたおし、以て全員玉砕せんとす。

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この命令書は、南雲中将、斉藤中将の起草のように言われますが、ちがうと思う。

おそらく、ふたりの尊敬すべき最高首脳の自害に立ち会った副官が、
壮絶な覚悟のもとに玉砕戦を呼び掛けたというのが実際のところでしょう。
命令書は謄写版で印刷され、壕の外を通る将兵に手渡されていきます。
玉砕命令は口伝えに生き残りの将兵に伝えられました。

7月7日、マッピ岬から約5キロ南方のマタンシャに集結したのは、
静岡・名古屋・岐阜で編成された第四三師団を中心とした3000名です。

一説によれば、この時点で生きていた日本の将兵は
1万人程度だったともいいますが、片手片足がなくなっていても、
とりあえずこの時点で歩行が可能だった、もしくは「動ける」者が、
約3000名だったといういうことであろうと思われます。

サイパン戦に終始従事した加賀学氏は、
当時の様子を次のように振り返っています。

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大半は何のための集合かも知らず、
「ガラパンに友軍が上陸するから、北方からも進撃する」とか
「玉砕突撃だ」
「ガラパン奪回だ」とかささやかれていた。
そうして集まった“最後の兵”たちも、小銃を持つ者は少なく、
特科兵(大砲や戦車などの兵)や軍属は竹竿や木の枝に
鉄棒や帯剣を付けた槍を持ち、
素手の者は手榴弾を吊っているのみというありさまだった。

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3000名は、三つのグループに分かれ、
それぞれ生き残りの佐官クラス(少佐、中佐、大佐)が指揮し、
ガラパンのアメリカ軍陣地へ向けて突撃しました。
指揮官の一人だった平櫛孝氏(第四三師団参謀、中佐)は次のように書いています。

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7月7日午前3時30分を期し、ワーッと喚声をあげて米軍に向かって突進した。
私とともに山際を進む者は約千名。
小銃を持たぬ兵もいる。
この突撃は、はじめからその効果を期待しない突撃だ。
世によく「万歳突撃」というが、そんな浅薄なものではない。
アメリカ側は“狂気”というが、むしろそれに近い。
しかし、病的な狂気ではない。
十分に己れをコントロールして、誰からも強いられたものではない
「狂気のごとくみえる本心」からの行動である。
したがって突撃前進の姿勢も大きい。
敵との距離が150メートルにせまっても誰も伏せもしない。
アメリカ側でも、この戦闘の基本動作以前の突撃に面食らったのか、
たちまち今までの静寂を破って、赤、白、緑、黄の曳光弾とともに
機関銃をアメあられと撃ちこんできた。

(「第四十三師団サイパン玉砕戦」所収)

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この突撃を目の当たりにした米国人ジャーナリストのロバート・シャーロッドは、
このときの模様を次のように書いています。

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この日本軍の大逆襲がおわったとき、山と重なった日本兵の死体は、
タラワ島の玉砕戦の場合よりもさらに密度が高かった。
すなわち、幅300メートル、長さ約2000メートル足らずの場所に、
およそ2000名の日本兵の死体が横たわっていたのだ。
そしてある場所では、これらの死体は四段に高くかさなりあっていた。
私の推測では、四人のうち一人の割合で自殺をとげていた。
そしてここでも、自殺の証拠は右手と胸部が吹飛ばされて、
死体からなくなっていることであった。
鉄道の土手の反対側には、少なくとも40名の日本兵の死体が、
これまた地上に横たわっていた。
しかし、その付近に小さな家があり、
その床下にはさらに何人かの日本兵の死体があった。
私は死体の数を6個まで数えたが、たぶんそこには1ダースぐらいあったであろう。
私の見たこれらの死体は全部、自決したものであって、
いずれも自分の手投げ弾によって、その右手はもぎ取られ、
胸部または首は吹きとんでしまっていた。

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一方、マッピ岬に取り残された民間人は、岬からつぎつぎに身を投げて自決しました。
あるいは断崖を降りて円陣を組み、手榴弾で集団自決しました。
ある者は幼子を抱えて入水して命を絶ちました。

日本民間人の玉砕のもようは、米軍の目前でくりひろげられています。
マッピ岬は、後にバンザイ・クリフと呼ばれるようになりますが、
このとき、岬から身を投げた民間人は、最低でも8000人だったといいます。

ここでひとつ重要なことを書いておかなければなりません。
このバンザイ・クリフで日本人の婦女たちが投身自殺する模様は、映像となって、
毎年8月15日の終戦記念日頃になると、繰り返しテレビで放映されています。

その映像の原盤をみると、撮影している米人たちが、
まるで娯楽映画を楽しむように、その人が次々と投身自殺をしていく光景をみて、
歓声をあげている音声がはいっています。


制止するべきではありませんか?
言葉が通じなかったとしても、その崖に銃弾でも撃ち込めば、
婦女たちは崖から飛び込むことをあきらめたとは考えられませんか?
ここにすべてがあらわれています。


サイパンの戦いで玉砕した日本軍は41,244名です。
そして重症のため、米軍に捕獲され、捕虜となったのが、2438名。
米軍の死傷者は、公称で、戦死3441人、負傷11,465人です。

ただし、米軍に初日の死傷者はこの数に含まれていません。
また、戦傷して病院に担ぎ込まれたあとに死亡した者は戦傷者としてカウント、
治療のあと隊に復帰した者は戦傷者に含まれていません。
従って、死傷者の数は、おそらくは1万5000〜2万人であったろうと思われます。

戦争は悲惨なものです。
絶対に繰り返してはなりません。

しかし、それでも「世界に戦争があること」を否定することはできません。
なぜなら、それは現実だからです。
そして、相手が弱いとみるや、徹底して蹂躙しようとする悪者が、
現実にこの世にはいるのです。
日本に原子爆弾が落とされたのは、その時点で
「絶対に日本から報復される惧れがなかったから」です。

サイパンで、民間人の婦女子や老人、子供が、ひどい目に遭わされました。
それは、最早その時点の日本側守備隊、あるいは日本本土から、
報復の惧れがまったくなかったからです。

もしサイパン戦の時点で、日本に強大な軍事力が保持され、
米本国への報復力があったならば、米軍は民間人の家屋への
爆撃や艦砲射撃ができません。
なぜなら報復の恐怖があるからです。
そういう微妙なバランスが、悲しいことですが、
人類の平和を微妙に維持しています。

「ボクはケンカはしません」ということは、立派な心がけです。
しかし、だからといって体を鍛え、
何ものにも負けない強い体と心を鍛えることを怠ったら、
万一のときにあなどられるだけです。

国家でもおなじことです。
スイスは永世中立を宣言しているから責められないのではありません。
万一の場合、スイス人全員が最後のひとりまで武器を持って戦うとしているから、
そんなヤバイところを誰も責めようとは思わない。

戦争は悲惨です。
けれど、悲惨だからといってそこから目をそむけても、現実は何も解決しません。
強盗被害に遭った。家族が殺された・・・そこから目をそむけても、
事態は何の解決にもならないのです。
二度と強盗に遭わないように、平素から120%の準備を怠らない。
それこそが本来のあるべき姿です。

軍備を持つからイケナイのではありません。
武器を用いて威嚇して他人に言うことを聞かせようとする無法者が現にいるから、
日ごろから備えを充分にして、武器を持っている無法者達に
すきなようにさせないということが大事です。

自分の国は自分で守る。
そのための強い心と軍事力を取り戻す。
それこそが、日本を取り戻す、ということだと私は思います。

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(以上、転載終わり)



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Last Modified : -0001-11-30