オランダ生活お役立ち情報~庶民的生活~

約1000記事にも及ぶオランダ関連記事を掲載しています。詳しくは、右の列「カテゴリ」をご覧下さい♪
Top Page › 本のご紹介 › 「知る権利」と「知らせない権利」
2014-01-30 (Thu) 09:00

「知る権利」と「知らせない権利」

少し間が開きましたが、今日もまた曽野綾子さんの著書
『「いい人」をやめると楽になる』から、ご紹介します。

=============

今はすぐに「知る権利」ばかりが言われるが、
個人にも組織にも「知られない権利」と「知りたくない権利」は
依然として残っているだろうと思うのだ。
その点については、だれもほとんど言わないのが不思議なのである。

人には、理由がなくても、他人は見せたくないというものがある。
日記などはその最たるものだろうか。
別にその中に夫に隠してよその男と会っていたとか、
誰かに対する殺意や妬みを書いてあるわけではない、としても、
日記などというものは、普通の神経なら(小説家は知らないが)
他人には見られたくないものである。

外にもまだその手のものはいくらでもある。
どの会社にも、社外には秘密にしなければならない技術的な部分がある。
あらゆる警察や軍隊は「知らせない権利」の元に成り立っている。
戦力というものは、ある場合はないように見せ掛け、
ない場合にはあるように見せ掛けるのが、当然の戦略なのだから、
ここでも「知る権利」など当然拒否される。

ーーーーーーーーーー

誰に対しても、どの国民に対しても、変わっていると思うなとか、
変わっているのを止めろ、というのは、
考えてみれば学問的態度でもなく、心理学的姿勢でもない。
もちろん商習慣や他の表面的なことは、充分に通用するように配慮するのは当然だが、
最近の日米関係は複雑で、ウラのウラ、そのまたウラもあるそうで、
私たち素人が新聞で読むのとは、まったく違った視点があるという。
それはたいへん結構な成り行きなのだが、庶民に示されるのは型どおりの解説だから、
両国の関係を憂うあまり妥協の姿勢を示すと、それが、長い年月には
間違った知識として定着するのではないか、とさえ思える空気が漂いだした。

「日本人は働きすぎる」などというのは、まったく余計なお世話、の典型だろう。
個人に対しては失礼な内面干渉、国や社会に対しては内政干渉である。
日本人がどんなに働こうが遊ぼうが、それはその人が自ら選んだ範囲で納得して、
好きでやっているのだから、止めることはできない。
それをアメリカ人の生き方が妥当だから、それと同じように変えろと
強制するという発想は、新たな植民地主義である。

ーーーーーーーーーー

ただおぼろげながらわかることは、外国では、
人は自分と考えが違うものだ、と誰もが思っていることだ。
人が違うのだから、考えも違って当然である。
しかし日本人はそうは思わない。
違うということは、反道徳的なことになる。
つまり多くの人は自分が正しいのだから、
正しいものの反対は悪いものだということになる。

ーーーーーーーーーー

日本では いい人はどこから見ても傷のない人であるべきなのだ。
栄誉ある軍人墓地に葬られる人は、終生正しい人でなければならない、
という感覚を持っている。

しかしオクラホマシティのビル爆破犯人に関する新聞記事は明快であった。
彼は戦場では勇敢に戦ったが、その後は「落ちた英雄」として
その名を留められればいいというのである。
確かにアーリントン墓地にはさまざまな人が葬られているはずだ。
妻を裏切った女たらし、手形詐欺をやった人、
怠け者、非常識で自分勝手な学者など。
しかし彼らは国のために戦った、あるいは戦わされた、
ということだけでは一致してるから、そこに葬られる資格がある。

他人を全体的に理解することはほとんど不可能だ、という認識があると、
社会や人生を、部分的に評価して、過不足ない現実を掴む。
しかしその人の道徳性などで判断すると、
人間の全体像はますますわからなくなる。

ーーーーーーーーーー

人は他人の罪の許しを求めることも(優しい感情としては神に願うが)、
自分の罪を他人に許してもらうように代理を頼むこともできない。
そんないい加減なことは、私のいい加減な信仰でも考えられないことだ。
そこでどうしてもそれをしたければ、何十年後であろうと
ナチスの暴虐を追及するように、かつての日本で、
直接そのような命令を下した人、命令を実行した人を、
法廷の場に引きずり出して裁く他はない。

心から自分の罪だ、と思っていない人が謝るとしたら、
それはそれだけで侮辱的な不誠実な行為であり、
そんなものはけっして謝ったとみなされないどころか、
むしろ口先だけ簡単に謝ってみせる誠意のない人間の証拠として、
国際社会から改めて嫌悪されるだろう。

ーーーーーーーーーー

自分の親でも子でも兄弟でも配偶者でもない赤の他人が、
戦争中に犯したことを謝れと言われても、私にはむずかしい。
もちろん謝れ、と言われれば謝っておいてもいいけれど、
謝るというのは本来自発的でなければ
意味のない行為だから、強制されて謝っても何の意味もないだろうと思う。
それを知りつつあえて謝れというのは、個人なら威張りたい人、
イコール弱い人なのではないか、と思う。

個人関係の場合、相手に謝らせるくらいなら、
こっそり侮蔑していたほうがいい、と私は思う。
しかし国際間の謝罪というものは、本来なら金銭の要求ということである。
それだから、なおのこと謝れない場合が多い。
自分が悪いと思っていても、謝ったら金を取られると思うから
払えない場合は謝れないのである。
さらも「国益」という、とにかく自分の国は損をしたくない、
という気持ちがあるから、ほとんど謝るということをしない。
その点でも、自国のことを執拗に悪く言う日本の新聞の「公正さ」というものは、
人間離れしていて気味が悪い。

ーーーーーーーーーー

人間は本質的に、平和と同時に喧嘩も好きなのだ。
だから、人間は誰でも平和だけが好きだというまちがった認識の上に立って
物事を話すと、議論が上滑りする。


=============


今回、こちらの本から色々と心に残った言葉をご紹介しました。
昨今の日本の現状をみるとき、曽野綾子さんの言葉が、
本当にびんびんと響いて心に届くように感じました。

狭い視野の中でだけ、何らかの考えに固執して、
あれこれ文句を言う(?)人も多いですが、
やはり、様々な判断基準を自分で身に付けることが大切ですね。
皆さんは、どのようにお感じになったでしょうか。




~~あなたのクリックが、元気の源です!~~
この2つのバナーを1回ずつ押して下さいませ。更新の励みになります♪
   ↓↓↓↓↓↓↓↓ 
 にほんブログ村 海外生活ブログ オランダ情報へ ← オランダのブログがいっぱい!
  ← ヨーロッパのブログがたくさん!


関連記事
Last Modified : 2015-04-13