やることはたくさんあるのですが、それでもなんとか、
ペースを落としつつも、読書は進めています。
今日は、最近読んで良かった本をご紹介したいと思います。
その本とは、こちら。

「日本人ほど誠実で物知りで頭がよく、生真面目な勉強家が多く、
実務家としてすばらしく有能なDNAを持った人種はいない。
しかし、日本人はなぜか大人ではない。なぜか?
日本人ばなれしたスケールの2人が日本人を語る」
海外へのボランティア活動も活発に行っておられる作家の曽野綾子さんと、
ノンフィクション作家で、現在ドイツのフランクフルト近郊にお住まいの、
クライン孝子さんの共著の1冊ですが、大変印象深かったのでご紹介します。
構成としては、
第1章 大人になれない日本人
第2章 家庭の王様は社会の孤児
第3章 人間をつくらない学校と社会
第4章 危険のない国はない
第5章 与えることが大人への道
という、5章立てになっています。
それぞれの章には、たくさんのテーマでためになることが書かれています。
全てをご紹介したいくらいなのですが、そんなわけにはいきませんので、
今日は「第4章 危険のない国はない」の中から、
「助け合いと危機管理の精神がつくるコミュニティー」という
タイトルの一節をご紹介したいと思います。
===============
<助け合いと危機管理の精神がつくるコミュニティー>
日本人は、外国へ出て自分の国の話題になった時、
きちんと話せる人が非常に少ない。
地に足が着いていないというか、いきなり抽象的で浮ついた話が飛び出して、
説得力がないんですね。
たとえば「グローバル化」という話がテーマになったとする。
この宇宙単位の「グローバル」の話に行き着くには、順序があるわけです。
それは、少しずつ積んでいく積み木のようなもので、
もっとも下にあるものから積み重ねていかなくてはいけない。
その最下段にあたるのが個人です。
私という個人であり、その上には家族がある。
家族の次は地域社会、いわゆるコミュニティーで、そこから国、
世界へと広がり、そしてようやく地球=グローバルという単位が登場する。
しかし日本人は、個人からいきなり「グローバル」に到達しようとして、
真ん中のプロセスを省略してしまいがちです。
とりわけ日本は戦後、コミュニティーを軽んじできてものだから、
その部分がすっぽり抜け落ちてしまって空洞化している。
だから、何を言っても今ひとつ説得に欠ける。心に響くものがない。
相手にきちんと伝わらない、もしくは伝えることができない。
どうも上滑りしてしまっている感じがしてなりません。
新潟県で、ある青年が当時小学校4年生の少女を誘拐して、
9年2ヶ月にわたって換金していた事件がありましたでしょう。
犯人の母親がそれに気づかなかったというのも信じられないけれど、
近所の人たちが不審に思ったことがないというのも異常です。
日本人は、「個人主義」を「無関心主義」と勘違いしているところがある。
ドイツの場合、隣の家にどんな人が住んでいるか
知らないなどということは、あり得ません。
中には、おせっかいな人もいて、うるさいなあとか面倒くさいなと
思うことはあるけれど、コミュニティーがしっかり確立しているから、
そういう意味では安心して暮らすことができる。
ドイツは国民一人ひとりが助け合いと危機管理の精神を持っています。
それが、コミュニティーをつくり、ひいては国力につながっているのです。
以前、朝日新聞の「声」欄に、戦争が起きて敵が攻めてきたら逃げる、
という青年の投書が載っていましたが、その話をドイツの若者にしたら、
「日本の国の若者は、自分の国がどうなろうと
まったく関心がないのだろうか」と言っていた。
若い女性ですら「いきなりどこかの国が攻めてきたら、
私だって、きっと応戦すると思う。それなのに日本の若者は、
自分の国の人々を見殺しにしても逃げるつもりなのかしら」
と語っていました。
もちろん私は、戦争はどうにかして回避すべきだと思っていますし、
若い人たちに国のために命を捧げろなどと言っているのではありません。
しかし時として、人間の根源にある勇気や責任、
義務を果たすことが必要なのではないか、と思うのです。
少なくともドイツの若者たちは、日々の学校や家庭、社会生活の中で、
それらを教えられている。
国を守らねばならないと思うのも、その一つの現れです。
ドイツも、敗戦直後は日本と同様、軍隊は解体されていました。
そして東西に分断され、冷戦の最前線にあった。
とくにソ連は拡大政策をとって、すきあらば西側へ侵入しようとする。
西ドイツ側には、何とかして自分の力で止めなくてはならないという、
言葉にならないすごい危機感があった。
米英仏が40万人の兵隊を置いてその防壁になってくれてはいたものの、
それだけでは足りない、自分たちで守らなければならない、と。
それで憲法を改正し、1995年には兵役が定められた。
何しろドイツは戦後から現在まで、憲法を50回近く変えています。
その理由は、やはりドイツという国を守るためなのです。
==================
この本は、2003年に発売されたものですが、
この中に書かれていたのと同じような、
「為政者のために戦争で戦って死ぬのは真っ平ごめん」
「戦争するくらいなら中国の属国でいい」的な発言を、
私が本帰国後、テレビの中のやくみつるさんがしておられたのを見て、
正直、唖然茫然とした覚えがあります。
ヨーロッパで生活をしたことのある方は、「軍」が身近な存在である生活が、
日本人がイメージするのとは違うものだということを、
肌で感じておられる方も多いと思います
なんていうんでしょう。「警察」に近いような…。
「この人たちがいてくれるから、安心」というか…。
ドイツは、日本と同様に第2次世界大戦の敗戦国でありながら、
どうしてこれほど日本とは違う“確固たる国”になれたのか。
そういったことについても、この本では触れられていますので、
また、このブログでご紹介したいと思っています。
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ペースを落としつつも、読書は進めています。
今日は、最近読んで良かった本をご紹介したいと思います。
その本とは、こちら。
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「日本人ほど誠実で物知りで頭がよく、生真面目な勉強家が多く、
実務家としてすばらしく有能なDNAを持った人種はいない。
しかし、日本人はなぜか大人ではない。なぜか?
日本人ばなれしたスケールの2人が日本人を語る」
海外へのボランティア活動も活発に行っておられる作家の曽野綾子さんと、
ノンフィクション作家で、現在ドイツのフランクフルト近郊にお住まいの、
クライン孝子さんの共著の1冊ですが、大変印象深かったのでご紹介します。
構成としては、
第1章 大人になれない日本人
第2章 家庭の王様は社会の孤児
第3章 人間をつくらない学校と社会
第4章 危険のない国はない
第5章 与えることが大人への道
という、5章立てになっています。
それぞれの章には、たくさんのテーマでためになることが書かれています。
全てをご紹介したいくらいなのですが、そんなわけにはいきませんので、
今日は「第4章 危険のない国はない」の中から、
「助け合いと危機管理の精神がつくるコミュニティー」という
タイトルの一節をご紹介したいと思います。
===============
<助け合いと危機管理の精神がつくるコミュニティー>
日本人は、外国へ出て自分の国の話題になった時、
きちんと話せる人が非常に少ない。
地に足が着いていないというか、いきなり抽象的で浮ついた話が飛び出して、
説得力がないんですね。
たとえば「グローバル化」という話がテーマになったとする。
この宇宙単位の「グローバル」の話に行き着くには、順序があるわけです。
それは、少しずつ積んでいく積み木のようなもので、
もっとも下にあるものから積み重ねていかなくてはいけない。
その最下段にあたるのが個人です。
私という個人であり、その上には家族がある。
家族の次は地域社会、いわゆるコミュニティーで、そこから国、
世界へと広がり、そしてようやく地球=グローバルという単位が登場する。
しかし日本人は、個人からいきなり「グローバル」に到達しようとして、
真ん中のプロセスを省略してしまいがちです。
とりわけ日本は戦後、コミュニティーを軽んじできてものだから、
その部分がすっぽり抜け落ちてしまって空洞化している。
だから、何を言っても今ひとつ説得に欠ける。心に響くものがない。
相手にきちんと伝わらない、もしくは伝えることができない。
どうも上滑りしてしまっている感じがしてなりません。
新潟県で、ある青年が当時小学校4年生の少女を誘拐して、
9年2ヶ月にわたって換金していた事件がありましたでしょう。
犯人の母親がそれに気づかなかったというのも信じられないけれど、
近所の人たちが不審に思ったことがないというのも異常です。
日本人は、「個人主義」を「無関心主義」と勘違いしているところがある。
ドイツの場合、隣の家にどんな人が住んでいるか
知らないなどということは、あり得ません。
中には、おせっかいな人もいて、うるさいなあとか面倒くさいなと
思うことはあるけれど、コミュニティーがしっかり確立しているから、
そういう意味では安心して暮らすことができる。
ドイツは国民一人ひとりが助け合いと危機管理の精神を持っています。
それが、コミュニティーをつくり、ひいては国力につながっているのです。
以前、朝日新聞の「声」欄に、戦争が起きて敵が攻めてきたら逃げる、
という青年の投書が載っていましたが、その話をドイツの若者にしたら、
「日本の国の若者は、自分の国がどうなろうと
まったく関心がないのだろうか」と言っていた。
若い女性ですら「いきなりどこかの国が攻めてきたら、
私だって、きっと応戦すると思う。それなのに日本の若者は、
自分の国の人々を見殺しにしても逃げるつもりなのかしら」
と語っていました。
もちろん私は、戦争はどうにかして回避すべきだと思っていますし、
若い人たちに国のために命を捧げろなどと言っているのではありません。
しかし時として、人間の根源にある勇気や責任、
義務を果たすことが必要なのではないか、と思うのです。
少なくともドイツの若者たちは、日々の学校や家庭、社会生活の中で、
それらを教えられている。
国を守らねばならないと思うのも、その一つの現れです。
ドイツも、敗戦直後は日本と同様、軍隊は解体されていました。
そして東西に分断され、冷戦の最前線にあった。
とくにソ連は拡大政策をとって、すきあらば西側へ侵入しようとする。
西ドイツ側には、何とかして自分の力で止めなくてはならないという、
言葉にならないすごい危機感があった。
米英仏が40万人の兵隊を置いてその防壁になってくれてはいたものの、
それだけでは足りない、自分たちで守らなければならない、と。
それで憲法を改正し、1995年には兵役が定められた。
何しろドイツは戦後から現在まで、憲法を50回近く変えています。
その理由は、やはりドイツという国を守るためなのです。
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この本は、2003年に発売されたものですが、
この中に書かれていたのと同じような、
「為政者のために戦争で戦って死ぬのは真っ平ごめん」
「戦争するくらいなら中国の属国でいい」的な発言を、
私が本帰国後、テレビの中のやくみつるさんがしておられたのを見て、
正直、唖然茫然とした覚えがあります。
ヨーロッパで生活をしたことのある方は、「軍」が身近な存在である生活が、
日本人がイメージするのとは違うものだということを、
肌で感じておられる方も多いと思います
なんていうんでしょう。「警察」に近いような…。
「この人たちがいてくれるから、安心」というか…。
ドイツは、日本と同様に第2次世界大戦の敗戦国でありながら、
どうしてこれほど日本とは違う“確固たる国”になれたのか。
そういったことについても、この本では触れられていますので、
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Last Modified : 2015-04-13