このブログで、最近よくご紹介しているのが、
曽野綾子さんとクライン孝子さんの共著、
「なぜ日本人は成熟できないのか」からの一説。
この本からの引用の記事をご紹介した日は、
わりと多くの方が読んで下さっているように感じております。
恐らく、私と同じように、色々と思わされるところが、
皆さんにもおありなのだろうと思います。
ということで、今日も再びこちらの1冊から、
以下の箇所をご紹介したいと思います。
=======================
第3章 人間をつくらない学校と社会 より
<宗教教育の意味> 曽野綾子
日本は、ドイツとは大違いです。
アメリカのテロ多発以来、宗教の話をすると、
一神教は排他的だと非難されてしまう。
キリスト教はそうではないということが、いくらでも聖書には書いてある。
聖書を読んでいない人ほど、そう言うんです。
とくにオウム真理教の事件がおきてから、ほとんどの日本人は、
宗教は全部迷信だと思っている。
いつも言うことですが、教団の指導者が神や仏の生まれ変わりだと言わず、
質素な生活をし、信仰の名のもとに金銭を要求せず、教団の組織を
政治や他の権力に利用しようとしない限り、別に用心する必要はありません。
神はいないと言う人も多いけれど、神なしで生きられるなら、それでいい。
しかし私は、神という概念がないと、
人間という分際を逸脱すると感じているのね。
信仰を持つと、価値判断が一方的にならない。
世の中には、神もいいと言い、社会もいいと言うものもある。
世間は誉めそやすけれど、
神は「そんなことは良くない」と思われるようなこともある。
社会がよくないと言ったり悪だと糾弾したりしても、
神は「それは正しい」と言うものもある。
もちろん、神も社会も「よくない」と言うこともある。
だから神が存在していることで、
もっと複眼でものを見ることができるようになるのです。
(略)
私は世界中で、日本にはない、
すばらしい発想にたくさん出合いました。
なぜ日本人には、そういう考え方が生まれないのか。
それは、どの宗教であるかにかかわらず、
神が不在であるからかもしれません。
日本人は、自分が宗教を持たないことをしばしば
科学的姿勢と思って誇りにしますが、世界では通用しない。
外国へ行った時に、入国カードに「無宗教」と書く人間は
一種の危険人物だと思う国はいくらでもあるし、
無神論者を信用しない人々はたくさんいます。
国際的な感覚では、どんな宗教でもいいのですが、
神がいないような人こそ何をしでかすかわからない、と危惧を覚えるのです。
私は海外でミサに出るとき、一緒に旅をしている人たちに
「キリスト教というのは、文学にも絵画にも音楽にも全部関係があります。
だから、知っておおきになって損なものではない。
教養として、ミサというものにお出になったらいかがですか」と申し上げています。
入信はしなくてもいいのよ。
でも、三大宗教くらいは知っているのが教養であり、世界の常識だと思う。
最近は、宗教を悪のように追放してきたから
日本の教育がこれほどまでに崩壊したのだと語る人たちが増えてきて、
私は少し不安になっているんですけれど。
無神論者も、その根拠がなければ根無し草のような人間になってしまう気がします。
日本でも義務教育の一環として、世界の三大宗教と神道、
無神論者のための哲学教室を用意し、少なくとも月に1回くらい、
生徒はそのどれかを受けるようにするべきだと思いますね。
=======================
私はオランダで暮らしているとき、
国の祝日も含め、全てキリスト教を基本にして動いている…
ということを実感しましたし、それが良いことのようにも思えました。
もちろん、オランダ人全員がキリスト教信者であるはずがないわけですが、
それでも国全体として、同じ基軸を持っているということは、
国民がバラバラにならず、自分たち国民がこの国を作っているのだという、
しっかりとした義務と責任を自覚することに繋がるのではないでしょうか。
日本には戦前、「国家神道」という、
オランダにとっての「キリスト教」に代わるものがありました。
もちろん、この「国家神道」というものに対しては、
負のイメージが大変強いことを認識してはいますが、
現在の日本に蔓延している「愚かな価値観」を憂える一人としては、
宗教を持たない人よりも、何らかの宗教観を持っている人の方が、
人間としては「立派」だと思える人が多いのではないかと思うのです。
それはもちろん、オランダでの生活を通じて感じたことでもあります。
ですので、最後に曽野綾子さんが仰っているように、
(宗教の授業はともかくとしても)
「哲学」を教えるような授業があっても良いように思いました。
正直、「道徳の授業」では物足りない気がします。
皆さんは、どのようにお感じになったでしょうか。
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曽野綾子さんとクライン孝子さんの共著、
「なぜ日本人は成熟できないのか」からの一説。
この本からの引用の記事をご紹介した日は、
わりと多くの方が読んで下さっているように感じております。
恐らく、私と同じように、色々と思わされるところが、
皆さんにもおありなのだろうと思います。
ということで、今日も再びこちらの1冊から、
以下の箇所をご紹介したいと思います。
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第3章 人間をつくらない学校と社会 より
<宗教教育の意味> 曽野綾子
日本は、ドイツとは大違いです。
アメリカのテロ多発以来、宗教の話をすると、
一神教は排他的だと非難されてしまう。
キリスト教はそうではないということが、いくらでも聖書には書いてある。
聖書を読んでいない人ほど、そう言うんです。
とくにオウム真理教の事件がおきてから、ほとんどの日本人は、
宗教は全部迷信だと思っている。
いつも言うことですが、教団の指導者が神や仏の生まれ変わりだと言わず、
質素な生活をし、信仰の名のもとに金銭を要求せず、教団の組織を
政治や他の権力に利用しようとしない限り、別に用心する必要はありません。
神はいないと言う人も多いけれど、神なしで生きられるなら、それでいい。
しかし私は、神という概念がないと、
人間という分際を逸脱すると感じているのね。
信仰を持つと、価値判断が一方的にならない。
世の中には、神もいいと言い、社会もいいと言うものもある。
世間は誉めそやすけれど、
神は「そんなことは良くない」と思われるようなこともある。
社会がよくないと言ったり悪だと糾弾したりしても、
神は「それは正しい」と言うものもある。
もちろん、神も社会も「よくない」と言うこともある。
だから神が存在していることで、
もっと複眼でものを見ることができるようになるのです。
(略)
私は世界中で、日本にはない、
すばらしい発想にたくさん出合いました。
なぜ日本人には、そういう考え方が生まれないのか。
それは、どの宗教であるかにかかわらず、
神が不在であるからかもしれません。
日本人は、自分が宗教を持たないことをしばしば
科学的姿勢と思って誇りにしますが、世界では通用しない。
外国へ行った時に、入国カードに「無宗教」と書く人間は
一種の危険人物だと思う国はいくらでもあるし、
無神論者を信用しない人々はたくさんいます。
国際的な感覚では、どんな宗教でもいいのですが、
神がいないような人こそ何をしでかすかわからない、と危惧を覚えるのです。
私は海外でミサに出るとき、一緒に旅をしている人たちに
「キリスト教というのは、文学にも絵画にも音楽にも全部関係があります。
だから、知っておおきになって損なものではない。
教養として、ミサというものにお出になったらいかがですか」と申し上げています。
入信はしなくてもいいのよ。
でも、三大宗教くらいは知っているのが教養であり、世界の常識だと思う。
最近は、宗教を悪のように追放してきたから
日本の教育がこれほどまでに崩壊したのだと語る人たちが増えてきて、
私は少し不安になっているんですけれど。
無神論者も、その根拠がなければ根無し草のような人間になってしまう気がします。
日本でも義務教育の一環として、世界の三大宗教と神道、
無神論者のための哲学教室を用意し、少なくとも月に1回くらい、
生徒はそのどれかを受けるようにするべきだと思いますね。
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私はオランダで暮らしているとき、
国の祝日も含め、全てキリスト教を基本にして動いている…
ということを実感しましたし、それが良いことのようにも思えました。
もちろん、オランダ人全員がキリスト教信者であるはずがないわけですが、
それでも国全体として、同じ基軸を持っているということは、
国民がバラバラにならず、自分たち国民がこの国を作っているのだという、
しっかりとした義務と責任を自覚することに繋がるのではないでしょうか。
日本には戦前、「国家神道」という、
オランダにとっての「キリスト教」に代わるものがありました。
もちろん、この「国家神道」というものに対しては、
負のイメージが大変強いことを認識してはいますが、
現在の日本に蔓延している「愚かな価値観」を憂える一人としては、
宗教を持たない人よりも、何らかの宗教観を持っている人の方が、
人間としては「立派」だと思える人が多いのではないかと思うのです。
それはもちろん、オランダでの生活を通じて感じたことでもあります。
ですので、最後に曽野綾子さんが仰っているように、
(宗教の授業はともかくとしても)
「哲学」を教えるような授業があっても良いように思いました。
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Last Modified : 2015-04-13