前回からご紹介し始めたヤマザキマリさんの本。
皆さん、興味を持ってご覧頂いているでしょうか?
今日も、気になった個所をご紹介したいと思います。
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◆多様な価値観に開かれるほど、人生は楽しい
――「空気を読む」は日本ではマナーのように考えられていますが、
読みすぎるのは、閉塞感を生じさせたり、
姑息になったり、マイナス面もありますよね。
そうですね。
それに「空気が読めないから、あいつはおかしい」
「変なことを言うから気持ち悪い」と異質なものを排除していては、
面白い人は出てきません。
特性を嫌って、いじめにまでエスカレートするのも間違ったことですね。
いじめは人間的なモラルの無さからくると思うのですが、
西洋の社会で日本ほどいじめが問題にならないのは、
キリスト教のモラルが関係しているようです。
イタリアに住んで思うのは、
「こんなことをされたら自分も悲しい」という感受性が
社会の中に存在しているんですよ。
日本では個々人にはあっても、
社会全体では共有されていないのではないでしょうか。
宗教がいい、必要だという話ではないのですが、
今の日本は宗教的な道徳観の拘束がなくなっているため、
難しさを抱えた国になっているとは思います。(略)
人間は信じる何かにすがりたいという気持ちが、どこかに生じるものです。
宗教を持つ人はそこでその気持ちが消化されますが、
なければ別のものが対象になってくる。
例えば、何らかの社会運動を自分の宗教のようにしてしまう人もいますよね。
違う意見と議論が必要なテーマでも、宗教の代替になってしまうと、
自分の主張を通すことに自分の存在意義まで絡まってきて、
反対意見に耳を傾ける余裕がなくなってしまいます。
いずれにしても、異質なものを認められない傾向は、
日本人の成熟を妨げていると思いますね。
足並みを揃えることに必死になりすぎている気がします。
==========================
私たち、海外生活経験者にとっては、割とすんなり理解できるのでは?と思います。
「今の日本は宗教的な道徳観の拘束がなくなっているため、
難しさを抱えた国になっている」というマリさんのご指摘は、当たっているでしょう。
「道徳」ではなく、「修身」の復活を願います。
私は以前も記事に書いたと思うのですが、明治時代の修身の教科書を入手し、
最後まできちんと読みましたが、大変良いことがたくさん書かれていました。
信教の自由は変える必要はありませんが、人としてどう生きるか、
人として何を大切にするべきかを、「日本」としてどう教え、どう伝えるのか。
個々人の「自由」ばかりを優先させるのではなく、
国家として、どういった国(民)でありたいと願うのか。
今の日本には、そのあたりがスコンっと抜け落ちてしまっているように感じます。
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――「空気を読む」は日本ではマナーのように考えられていますが、
読みすぎるのは、閉塞感を生じさせたり、
姑息になったり、マイナス面もありますよね。
そうですね。
それに「空気が読めないから、あいつはおかしい」
「変なことを言うから気持ち悪い」と異質なものを排除していては、
面白い人は出てきません。
特性を嫌って、いじめにまでエスカレートするのも間違ったことですね。
いじめは人間的なモラルの無さからくると思うのですが、
西洋の社会で日本ほどいじめが問題にならないのは、
キリスト教のモラルが関係しているようです。
イタリアに住んで思うのは、
「こんなことをされたら自分も悲しい」という感受性が
社会の中に存在しているんですよ。
日本では個々人にはあっても、
社会全体では共有されていないのではないでしょうか。
宗教がいい、必要だという話ではないのですが、
今の日本は宗教的な道徳観の拘束がなくなっているため、
難しさを抱えた国になっているとは思います。(略)
人間は信じる何かにすがりたいという気持ちが、どこかに生じるものです。
宗教を持つ人はそこでその気持ちが消化されますが、
なければ別のものが対象になってくる。
例えば、何らかの社会運動を自分の宗教のようにしてしまう人もいますよね。
違う意見と議論が必要なテーマでも、宗教の代替になってしまうと、
自分の主張を通すことに自分の存在意義まで絡まってきて、
反対意見に耳を傾ける余裕がなくなってしまいます。
いずれにしても、異質なものを認められない傾向は、
日本人の成熟を妨げていると思いますね。
足並みを揃えることに必死になりすぎている気がします。
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私たち、海外生活経験者にとっては、割とすんなり理解できるのでは?と思います。
「今の日本は宗教的な道徳観の拘束がなくなっているため、
難しさを抱えた国になっている」というマリさんのご指摘は、当たっているでしょう。
「道徳」ではなく、「修身」の復活を願います。
私は以前も記事に書いたと思うのですが、明治時代の修身の教科書を入手し、
最後まできちんと読みましたが、大変良いことがたくさん書かれていました。
信教の自由は変える必要はありませんが、人としてどう生きるか、
人として何を大切にするべきかを、「日本」としてどう教え、どう伝えるのか。
個々人の「自由」ばかりを優先させるのではなく、
国家として、どういった国(民)でありたいと願うのか。
今の日本には、そのあたりがスコンっと抜け落ちてしまっているように感じます。
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Last Modified : 2016-10-24