さて、9月も今日で終わり。
ほんと、年を取れば取るほど、毎年時間の過ぎるのが早くなりますね。
一昨日28日、誕生日を迎えました。
来年の誕生日も、平和で健康で無事に迎えられるのか。
この先の日本はどうなってしまうのかわかりませんが、
とにかく世界が平和でありますように。
さて、今日からご紹介するのはこちら。

大変たくさんの著書をお持ちの方が書かれたものです。
それでは、この中から印象的だったところを。
================================
第二章 老いてからの生き甲斐
○墓場に持ってゆく話
私は、十年前に『水は深く掘れ』という本で紹介した
ある海軍軍人の「墓場に持ってゆく話」を、もう一度、再現したい。
「沖縄特高はどの艦にも片道分の油しか持たせなかった残酷な作戦だった」
という断定が太平洋海戦史のなかで正史として語られているからである。
しかし、沖縄作戦が終了し、出動した艦のうち、
大和、矢矧、磯風、浜風、朝霜、霞が沈没したが、
冬月、涼月、雪風、初霜などの駆逐艦は生還したのである。
駆逐艦のような燃料タンク容量の小さい艦が沖縄・呉間を往復できたことは、
初めから「片道燃料」でなかったことを物語っていよう。
それを、戦後の戦史家たち、日本海軍を書き継ぐ物書きたちは、なぜ、書かないのか。
なぜ、「片道特攻」という四の五の言わせぬ強い表現を再検討してみようとしないのか。
語るのは小林儀作氏(故人)である。
沖縄戦当時は連合艦隊参謀(燃料担当)の海軍大佐で、
「戦艦大和沖縄突入作戦について」と題する一文を『水交』という雑誌に寄稿している。
昭和二十年三月二十日、連合艦隊の作戦命令が第二艦隊(旗艦は大和)に発令された。
この命令書の中には、たしかに「搭載燃料は片道とする」という文字はある。
小林大佐は、命令伝達に赴く草鹿龍之介中将にたのんで「大和」に乗艦し、
第二艦隊旗艦参謀の松岡茂少佐に会って
「今回の出撃のための燃料は
聯合艦隊参謀である小林大佐が直接行うから一任してほしい」と了解を取り付け、
ただちに高速艇で呉鎮守府に赴き、旗艦参謀今井和夫中佐と面談する。
今井中佐は海軍機関学校で小林大佐の二期後輩である。以下、小林氏の文章による。
(略)
小林大佐は、「大和」を旗艦とする第二艦隊の沖縄突入作戦が
決まるまでの経緯を詳しく説明し、言葉を継いでゆく。
「たとえ生還の算少なしとは云え、燃料は片道分だけしか渡さないと云うことは
武人の情にあらず、往復の燃料を搭載して快く出撃せしめたい。
今回無理を云って聯合艦隊参謀帳に随行してきた私の目的はこの一点だけである。
聯合艦隊参謀と云う公職で頼むのではなく、小林大佐一個人の懇願なのだ」
今井中佐は快諾する。二人で実施方法をきめる。
(略)
戦後、海軍の、というより軍部の「非情」を攻撃する言葉が強くなりすぎた。
その圧倒的な時代的正論に対して、「片道特攻」という命令下にも
「武士の情け」はござったのよ、といっておきたい、
それが墓場の手前で披露した小林大佐の心情である。
(略)
================================
何だかキナ臭い今日この頃。
私たちは、「戦争」というものから目を背けたくなってしまいます。
しかし、「歴史は繰り返す」。
「歴史」というものは、その国々で、好き勝手に捏造されていることは、
韓国の姿を見ていれば、誰にでも容易に想像が出来ると思います。
私たち日本人は、近現代史をまともに学んでいないことに対して、
あまりにも問題意識が低いと言わざるを得ないでしょう。
断片的な情報から、全てわかったような気になってしまうというのも、
正直、とても問題があると思います。
歴史問題だけではなく、日常の「人の噂」に対する感覚も同じでしょう。
色んな立場から見た場合で、善悪が全く逆になることもあるわけです。
海外に住む日本人の方には、是非、「思い込み日本史」ではなく、
「正しい歴史認識」を持って、外国人の方々と接して頂ければ…と願います。
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ほんと、年を取れば取るほど、毎年時間の過ぎるのが早くなりますね。
一昨日28日、誕生日を迎えました。
来年の誕生日も、平和で健康で無事に迎えられるのか。
この先の日本はどうなってしまうのかわかりませんが、
とにかく世界が平和でありますように。
さて、今日からご紹介するのはこちら。
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大変たくさんの著書をお持ちの方が書かれたものです。
それでは、この中から印象的だったところを。
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第二章 老いてからの生き甲斐
○墓場に持ってゆく話
私は、十年前に『水は深く掘れ』という本で紹介した
ある海軍軍人の「墓場に持ってゆく話」を、もう一度、再現したい。
「沖縄特高はどの艦にも片道分の油しか持たせなかった残酷な作戦だった」
という断定が太平洋海戦史のなかで正史として語られているからである。
しかし、沖縄作戦が終了し、出動した艦のうち、
大和、矢矧、磯風、浜風、朝霜、霞が沈没したが、
冬月、涼月、雪風、初霜などの駆逐艦は生還したのである。
駆逐艦のような燃料タンク容量の小さい艦が沖縄・呉間を往復できたことは、
初めから「片道燃料」でなかったことを物語っていよう。
それを、戦後の戦史家たち、日本海軍を書き継ぐ物書きたちは、なぜ、書かないのか。
なぜ、「片道特攻」という四の五の言わせぬ強い表現を再検討してみようとしないのか。
語るのは小林儀作氏(故人)である。
沖縄戦当時は連合艦隊参謀(燃料担当)の海軍大佐で、
「戦艦大和沖縄突入作戦について」と題する一文を『水交』という雑誌に寄稿している。
昭和二十年三月二十日、連合艦隊の作戦命令が第二艦隊(旗艦は大和)に発令された。
この命令書の中には、たしかに「搭載燃料は片道とする」という文字はある。
小林大佐は、命令伝達に赴く草鹿龍之介中将にたのんで「大和」に乗艦し、
第二艦隊旗艦参謀の松岡茂少佐に会って
「今回の出撃のための燃料は
聯合艦隊参謀である小林大佐が直接行うから一任してほしい」と了解を取り付け、
ただちに高速艇で呉鎮守府に赴き、旗艦参謀今井和夫中佐と面談する。
今井中佐は海軍機関学校で小林大佐の二期後輩である。以下、小林氏の文章による。
(略)
小林大佐は、「大和」を旗艦とする第二艦隊の沖縄突入作戦が
決まるまでの経緯を詳しく説明し、言葉を継いでゆく。
「たとえ生還の算少なしとは云え、燃料は片道分だけしか渡さないと云うことは
武人の情にあらず、往復の燃料を搭載して快く出撃せしめたい。
今回無理を云って聯合艦隊参謀帳に随行してきた私の目的はこの一点だけである。
聯合艦隊参謀と云う公職で頼むのではなく、小林大佐一個人の懇願なのだ」
今井中佐は快諾する。二人で実施方法をきめる。
(略)
戦後、海軍の、というより軍部の「非情」を攻撃する言葉が強くなりすぎた。
その圧倒的な時代的正論に対して、「片道特攻」という命令下にも
「武士の情け」はござったのよ、といっておきたい、
それが墓場の手前で披露した小林大佐の心情である。
(略)
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何だかキナ臭い今日この頃。
私たちは、「戦争」というものから目を背けたくなってしまいます。
しかし、「歴史は繰り返す」。
「歴史」というものは、その国々で、好き勝手に捏造されていることは、
韓国の姿を見ていれば、誰にでも容易に想像が出来ると思います。
私たち日本人は、近現代史をまともに学んでいないことに対して、
あまりにも問題意識が低いと言わざるを得ないでしょう。
断片的な情報から、全てわかったような気になってしまうというのも、
正直、とても問題があると思います。
歴史問題だけではなく、日常の「人の噂」に対する感覚も同じでしょう。
色んな立場から見た場合で、善悪が全く逆になることもあるわけです。
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Last Modified : 2017-09-30