さて今日は、曽野綾子さんのご著書のご紹介、最終回です。
今日のテーマは「光」」。
では、早速ご覧下さいませ~。
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◆影があるから光が見える
どれほど幸せを感じるかは、その人の才能だと思います。
今日も元気で、おまんまが食べられれば幸せとか、
愛する妻子がいてくれるだけで幸せとか、
狭い家でもコタツがあって、そこでみんなでミカンを食べられたら幸せとか、
つつましさがないと幸せを感じるのは難しいでしょうね。
同じ状況でも、「コタツでミカンを食うのは貧乏ったらしい」などと思ったら、
幸せどころではなくなりますからね。
たぶん、幸せを感じる才能は生来あるものではなくて、
開発していくものなんでしょう。
自分自身で鍛えていくわけですね。
周囲をよく見れば、自分より幸せそうに見える人もいるけれど、
自分より不幸そうに見える人もいる。
それを思って、自分が得ている幸せを感謝する。
病気の人を見たら、自分が健康であることを
ありがたく思わずにはいられないでしょう。
~~~
闇がなければ、光がわからない。
人生も、それと同じかもしれません。
幸福というものは、なかなか実態がわからないけれど、
不幸がわかると、幸福がわかるでしょう。
だから不幸というのも、決して悪いものではないんですね。
荒っぽい言い方ですが、幸福を感じる能力は、不幸のなかでしか養われない。
運命や絶望をしっかりと見据えないと、
希望というものの本質も輝きもわからないのだろうと思います。
もちろん、不幸はできるだけ避けたいし、
病気や貧困はすべて解決する方向へ努力すべきです。
しかし、人間は幸福からも不幸からも学ぶことができるんですね。
病気、失恋、受験に失敗すること、勤め先の倒産、親との死別、離婚、
親しい人から激しい裏切りにあうこと……などを耐え抜いた人というのは、
必ず強く深くなっています。
そして、望ましくなかった経験がむしろ個性となって、
その人を静かに輝かせているものです。
日本人が満ち足りていながら、豊かさを感じられないのは、
たぶん絶望や不幸の認識と勉強が決定的に足りないからで、
世の中も、不幸というものの価値を徹底して認めないからです。
不幸はつまり、不平等と社会悪の現れだとしか思わない。
そんなもったいない話はないんですけどね。
=============================
“幸せを感じる才能は生来あるものではなくて、 開発していくもの”
…という言葉に、とても共感しました。
どこかの国の誰かから見れば、羨ましい状態であるにもかかわらず、
自分が「幸せだ!」と感じられないのは、自分がまだ開発されていないから。
幸せを生きられる人って、幸せを感じる才能を開発した人なんですよね。
“不幸がわかると、幸福がわかる”
“幸福を感じる能力は、不幸のなかでしか養われない”
…というのも、また然り。
「余命○カ月です」などと、死の宣告を受けた人や、
事故などで体が不自由になった人など、
自分に襲いかかってきた不幸にめげてしまう人ばかりではなく、
不幸を味わったからこそ、その人の中から光るものが芽生えることも多い。
私も、「死」を直視したからこそ、毎日を本当に大切に生きられるようになり、
日常の何気ない幸せを、ものすごく大きな幸せと感じられるようになりました♪
“日本人が満ち足りていながら、豊かさを感じられないのは、
たぶん絶望や不幸の認識と勉強が決定的に足りないからで、
世の中も、不幸というものの価値を徹底して認めないからです”
とまとめておられましたが、確かに、社会が「不幸」を認めていないというのは、
実感しておられる方も多いと思います。
「不幸」=「あってはならないもの」という方程式が出来上がっていますが、
私は、その人その人に必要な不幸が、
必要なタイミングで与えられているのではないかと思うのです。
最中にあるときには、その不幸に押しつぶされそうになってしまいますが、
何とかそこを切り抜け、あとでその時を振り返った時、
その不幸があったからこそ、人としてグッと成長できたと感じることが多いのです。
つまり、「不幸」は、その人が人間としての成長を遂げるための関門というか。
皆さんは、どのように感じられましたでしょうか?
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◆影があるから光が見える
どれほど幸せを感じるかは、その人の才能だと思います。
今日も元気で、おまんまが食べられれば幸せとか、
愛する妻子がいてくれるだけで幸せとか、
狭い家でもコタツがあって、そこでみんなでミカンを食べられたら幸せとか、
つつましさがないと幸せを感じるのは難しいでしょうね。
同じ状況でも、「コタツでミカンを食うのは貧乏ったらしい」などと思ったら、
幸せどころではなくなりますからね。
たぶん、幸せを感じる才能は生来あるものではなくて、
開発していくものなんでしょう。
自分自身で鍛えていくわけですね。
周囲をよく見れば、自分より幸せそうに見える人もいるけれど、
自分より不幸そうに見える人もいる。
それを思って、自分が得ている幸せを感謝する。
病気の人を見たら、自分が健康であることを
ありがたく思わずにはいられないでしょう。
~~~
闇がなければ、光がわからない。
人生も、それと同じかもしれません。
幸福というものは、なかなか実態がわからないけれど、
不幸がわかると、幸福がわかるでしょう。
だから不幸というのも、決して悪いものではないんですね。
荒っぽい言い方ですが、幸福を感じる能力は、不幸のなかでしか養われない。
運命や絶望をしっかりと見据えないと、
希望というものの本質も輝きもわからないのだろうと思います。
もちろん、不幸はできるだけ避けたいし、
病気や貧困はすべて解決する方向へ努力すべきです。
しかし、人間は幸福からも不幸からも学ぶことができるんですね。
病気、失恋、受験に失敗すること、勤め先の倒産、親との死別、離婚、
親しい人から激しい裏切りにあうこと……などを耐え抜いた人というのは、
必ず強く深くなっています。
そして、望ましくなかった経験がむしろ個性となって、
その人を静かに輝かせているものです。
日本人が満ち足りていながら、豊かさを感じられないのは、
たぶん絶望や不幸の認識と勉強が決定的に足りないからで、
世の中も、不幸というものの価値を徹底して認めないからです。
不幸はつまり、不平等と社会悪の現れだとしか思わない。
そんなもったいない話はないんですけどね。
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“幸せを感じる才能は生来あるものではなくて、 開発していくもの”
…という言葉に、とても共感しました。
どこかの国の誰かから見れば、羨ましい状態であるにもかかわらず、
自分が「幸せだ!」と感じられないのは、自分がまだ開発されていないから。
幸せを生きられる人って、幸せを感じる才能を開発した人なんですよね。
“不幸がわかると、幸福がわかる”
“幸福を感じる能力は、不幸のなかでしか養われない”
…というのも、また然り。
「余命○カ月です」などと、死の宣告を受けた人や、
事故などで体が不自由になった人など、
自分に襲いかかってきた不幸にめげてしまう人ばかりではなく、
不幸を味わったからこそ、その人の中から光るものが芽生えることも多い。
私も、「死」を直視したからこそ、毎日を本当に大切に生きられるようになり、
日常の何気ない幸せを、ものすごく大きな幸せと感じられるようになりました♪
“日本人が満ち足りていながら、豊かさを感じられないのは、
たぶん絶望や不幸の認識と勉強が決定的に足りないからで、
世の中も、不幸というものの価値を徹底して認めないからです”
とまとめておられましたが、確かに、社会が「不幸」を認めていないというのは、
実感しておられる方も多いと思います。
「不幸」=「あってはならないもの」という方程式が出来上がっていますが、
私は、その人その人に必要な不幸が、
必要なタイミングで与えられているのではないかと思うのです。
最中にあるときには、その不幸に押しつぶされそうになってしまいますが、
何とかそこを切り抜け、あとでその時を振り返った時、
その不幸があったからこそ、人としてグッと成長できたと感じることが多いのです。
つまり、「不幸」は、その人が人間としての成長を遂げるための関門というか。
皆さんは、どのように感じられましたでしょうか?
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Last Modified : 2018-05-15