さて、前回からご紹介し始めた『武士道 解題』。
皆さんには、どのような印象を与えているでしょうか。
前回ご紹介した部分の続きと、第二章で印象に残ったところを、
今日はご紹介したいと思います。
どうぞ、ご覧下さい。
============================
●教養教育の軽視と「武士道」の衰退
とにかく、日本の旧制中学や旧制高校の学生たちは、
徹底的に本を読みフィロゾフィーレン(哲学する=philosophieren)していました。
しかも、単なる「ブッキッシュ・ラーニング」
(Bookish Learning=本を通しての頭だけの理解)に終わらせず、
常にその成果を実人生に反映させながら実践し、苦悩し、呻吟していた。
それなのに、このような素晴らしく思索的で哲学的な雰囲気が、
戦後の日本教育の中でほとんどすべて否定されるようになったのは、
かえすがえすも残念でなりません。
(略)
そう言えば、当時の中学生や高校生の必読書の一つに
倉田百三の『出家とその弟子』という本も入っていました。
親鸞の子である善鸞の苦脳を通して、日本の中学生や高校生のほとんどが、
実に真剣に「人生とは何か」とか「人間いかに生きるべきか」などといった
大命題に真っ向から向き合っていた。
そして、それが日本という国の本当の“強さ”につながっていったのだと思うのです。
(略)
第二章 新渡戸稲造との出会い
●人間いかに生くべきか?
私は本当に子供のころから自分の内面(小宇宙)を見つめ続けてきました。
そして、「人間はなぜ死ぬのか」「生きるとはどういうことなのか」
というようなことばかり考え続けてきました。
そのような「死生観」に真っ向から答えてくれたのが、
カーライルと新渡戸稲造という二人の見上げるような哲人だったのです。
(略)
人間、「死」という問題を考え抜いて、
初めて「生」についても真剣に考えることができるようになるのです。死生観ですね。
そして、この問題に一つの大きな鍵を与えてくれたのが、「永遠の否定」であり、
またそれをいかにして「永遠の肯定」に変えていくかという生の哲学だったのです。
(略)
●カーライルと新渡戸稲造の出会い
(略)
憂きことのなほこの上に積れかし 限りある身の力ためさん (山中鹿之介)
敷島の大和心を人問わば 朝日に匂ふ山桜花 (本居宣長)
かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂 (吉田松陰)
これらはすべて『武士道』の中に出てくる日本の歌(和歌)ですが、
子供のころから「日本語で読み、日本語で考える」ことに専念してきた私にとっては、
まさに天啓のように、心の奥底にまでじんじんと染み通ってきました。
人間、死んだ気になってやり通そうとさえすれば、
どんなことでも成し遂げられないことなどないのです。
すなわち、徹底的に「死」の意味を追求していくことによって、
結局、輝かしい「生」の彼岸に到達できるのです。
(略)
============================
如何でしたでしょうか。
本当に、李登輝さんの思考の深さには敬服します。
そんな時代だった…という一言で、流せてしまうことではないと思うんです。
もちろん彼が言うように、当時の学生たちは真剣にモノを考え、
「生きるとは?」「死とは?」ということと、
真摯に向き合っていたのだろうと思います。
私はここ数年、本文にあったような「人生とは何か」「人間いかに生きるべきか」
「人生の目的とは何か」…というようなことを、深く考える時間を持ちました。
だから余計に、この本で書かれている素晴らしいお話の数々が、
胸にスーッと沁み込んでくるのかもしれません。
『出家とその弟子』という本はまだ読んではいませんが、
禅や仏教、キリスト教の「師」の方々が書かれた本は、割と読みました。
やはり宗教って、言ってることはほとんど同じなんですよね。(笑)
どの宗教であろうが、「良い教えは良い」のです。
“人間、「死」という問題を考え抜いて、
初めて「生」についても真剣に考えることができるようになる”
と書かれていましたが、私も「死」について真剣に考える時間を持ったため、
このことについても、強く同意しました。
「終末期医療」の現場におられる医師や看護師が書かれた本は、
いずれ私に訪れる「死」を直視する大変良い機会を与えてくれました。
後悔しない「死」を迎えるために、今をどう生きるべきか。
人生を逆算して生きるようになりました。
だから、無為な時間が激減し、毎日が充実しています。
“徹底的に「死」の意味を追求していくことによって、
結局、輝かしい「生」の彼岸に到達できる”と書かれていましたが、
本当にその通りだと思います。
でも、大抵の人たちは、「死」について真剣に考えるどころか、
どこか遠ざけて、忌み嫌って生きているように思います。
それは結局、「生」を軽んじてしまうことに繋がっているのではないでしょうか。
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●教養教育の軽視と「武士道」の衰退
とにかく、日本の旧制中学や旧制高校の学生たちは、
徹底的に本を読みフィロゾフィーレン(哲学する=philosophieren)していました。
しかも、単なる「ブッキッシュ・ラーニング」
(Bookish Learning=本を通しての頭だけの理解)に終わらせず、
常にその成果を実人生に反映させながら実践し、苦悩し、呻吟していた。
それなのに、このような素晴らしく思索的で哲学的な雰囲気が、
戦後の日本教育の中でほとんどすべて否定されるようになったのは、
かえすがえすも残念でなりません。
(略)
そう言えば、当時の中学生や高校生の必読書の一つに
倉田百三の『出家とその弟子』という本も入っていました。
親鸞の子である善鸞の苦脳を通して、日本の中学生や高校生のほとんどが、
実に真剣に「人生とは何か」とか「人間いかに生きるべきか」などといった
大命題に真っ向から向き合っていた。
そして、それが日本という国の本当の“強さ”につながっていったのだと思うのです。
(略)
第二章 新渡戸稲造との出会い
●人間いかに生くべきか?
私は本当に子供のころから自分の内面(小宇宙)を見つめ続けてきました。
そして、「人間はなぜ死ぬのか」「生きるとはどういうことなのか」
というようなことばかり考え続けてきました。
そのような「死生観」に真っ向から答えてくれたのが、
カーライルと新渡戸稲造という二人の見上げるような哲人だったのです。
(略)
人間、「死」という問題を考え抜いて、
初めて「生」についても真剣に考えることができるようになるのです。死生観ですね。
そして、この問題に一つの大きな鍵を与えてくれたのが、「永遠の否定」であり、
またそれをいかにして「永遠の肯定」に変えていくかという生の哲学だったのです。
(略)
●カーライルと新渡戸稲造の出会い
(略)
憂きことのなほこの上に積れかし 限りある身の力ためさん (山中鹿之介)
敷島の大和心を人問わば 朝日に匂ふ山桜花 (本居宣長)
かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂 (吉田松陰)
これらはすべて『武士道』の中に出てくる日本の歌(和歌)ですが、
子供のころから「日本語で読み、日本語で考える」ことに専念してきた私にとっては、
まさに天啓のように、心の奥底にまでじんじんと染み通ってきました。
人間、死んだ気になってやり通そうとさえすれば、
どんなことでも成し遂げられないことなどないのです。
すなわち、徹底的に「死」の意味を追求していくことによって、
結局、輝かしい「生」の彼岸に到達できるのです。
(略)
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如何でしたでしょうか。
本当に、李登輝さんの思考の深さには敬服します。
そんな時代だった…という一言で、流せてしまうことではないと思うんです。
もちろん彼が言うように、当時の学生たちは真剣にモノを考え、
「生きるとは?」「死とは?」ということと、
真摯に向き合っていたのだろうと思います。
私はここ数年、本文にあったような「人生とは何か」「人間いかに生きるべきか」
「人生の目的とは何か」…というようなことを、深く考える時間を持ちました。
だから余計に、この本で書かれている素晴らしいお話の数々が、
胸にスーッと沁み込んでくるのかもしれません。
『出家とその弟子』という本はまだ読んではいませんが、
禅や仏教、キリスト教の「師」の方々が書かれた本は、割と読みました。
やはり宗教って、言ってることはほとんど同じなんですよね。(笑)
どの宗教であろうが、「良い教えは良い」のです。
“人間、「死」という問題を考え抜いて、
初めて「生」についても真剣に考えることができるようになる”
と書かれていましたが、私も「死」について真剣に考える時間を持ったため、
このことについても、強く同意しました。
「終末期医療」の現場におられる医師や看護師が書かれた本は、
いずれ私に訪れる「死」を直視する大変良い機会を与えてくれました。
後悔しない「死」を迎えるために、今をどう生きるべきか。
人生を逆算して生きるようになりました。
だから、無為な時間が激減し、毎日が充実しています。
“徹底的に「死」の意味を追求していくことによって、
結局、輝かしい「生」の彼岸に到達できる”と書かれていましたが、
本当にその通りだと思います。
でも、大抵の人たちは、「死」について真剣に考えるどころか、
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Last Modified : 2018-06-04