まず、仏教から…

2018/06/14 (木)  カテゴリー/本のご紹介

さて、今日は“宗教”に関して書かれているところをご紹介します。
オランダは、キリスト教に基づいた祝日が制定され、
キリスト教をベースに色んなことが動いていたように思います。

私がAmstelveenでのオランダ生活を始めて感動したことの1つに、
日曜日の朝の静けさと、教会の鐘の音がありました。
とても清らかで清々しい1日が始まる…という気持ちになったことを思い出します。
日本だと、お寺の鐘の音って、「朝」というよりも「夕方」ですものね。

では、どうぞご覧ください。

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新渡戸先生は、「武士道の淵源」として最初に仏教を取り上げています。
《まず、仏教から始めよう。
 運命に任すという平静なる感覚、不可避に対する静かなる服従、
 危険災禍に直面してのストイック的なる沈着、生を賎しみ死を親しむ心、
 仏教は武士道に対してこれらを寄与した》
仏教が武士道に与えた冷静、沈着なる心のありようは、
物質主義にとらわれている現在の日本に最も欠けていることのひとつと言えましょう。
経済ひとつをとってみても、株価が下がると不況だ不況だと騒ぎ立て、
本当に景気を冷え込ませてしまう。
もっと冷静に事態を受け止め、沈着に対処することが日本人にはできるはずです。
ただし、「生を賤しみ死を親しむ心」だけは、私が肯定できない考え方です。
(略)
本来持つべき死生観というのは、
死を知ることによって生をどうするかという問題意識なのであって、
生というのは非常に大事なことなのです、また、死を親しむ心ではいけない。
死は知ることが大切なのであって、
死を知ることによって生をどう生きるかという問題意識を持つことが
何より大切なのです。

《ある剣道の達人(注:柳生但馬守)がその門手に業の極意を教え終わった時、
 これに告げて言った。
 「これ以上の事は余の指南の及ぶところでなく、禅の教えに譲らねばならない」と》
(略)
私の体験は、物心両面から、一段の高みにある神への信仰に基づいています。
若い頃に傾倒した禅の体験も、求めるところは同じであったように思うのです。
つまり個人的な欲や物質主義から超越した、
もう一つ高い形而上学的なものが「極意以上のこと」なのでしょう。
そこに信仰という問題が出てくる。
信仰というのは理性ではないのです。
かつて私は、キリスト教に回心するにあたって非常に苦しんだことがあります。
納得のいく答えを求めて、五年間もありとあらゆる教会を回り歩いたのです。
「なぜマリアは処女にしてイエスを産んだか」
「なぜイエスが磔にされて、そして生き返ったのか」
どう考えても理性では説明がつかない不可能なことです。
五年の間、これは何なのかと悩み続けました。
その結果、これはもう理性的に考える必要はないのだ、と悟ったのです。
そうなのだ、イエスは本当に磔にされて生き返ったのだと信じること、
それがすなわち信仰なのです。
いまの私から見れば、この五年間の苦悩は、まさに精神的問題でした。
「死というのは、いったい何が死ぬのか」という命題にも通じていました。
それは結局、自我が死ぬことなのです。
自我を死なせる、そして生き返る。
(略)
決して肉体的な死とか、理屈でいう問題ではない、ということを教えています。
(略)

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如何でしたでしょうか?
李登輝氏がおっしゃっている
“仏教が武士道に与えた冷静、沈着なる心のありようは、
 物質主義にとらわれている現在の日本に最も欠けている”という見解は、
確かにその通りだと感じた方も多いのではないでしょうか。
なにせ、自分軸がしっかりしていない人が一般的になってしまい、
周りに流されて自分の考えや意思がない人多い。
まあ、今の若い人たちは、そうでもない人も増えてきたようには思いますが。

「死生観」について李登輝氏は、
“本来持つべき死生観というのは、
 死を知ることによって生をどうするかという問題意識”
とおっしゃっています。
つまり、「どう生きるか」についての答えを見つけるためには、
「死」というものを直視し、受け入れることが必要なわけです。

そして、「信仰」についても書かれていましたね。
日本人は、「信心深い」と言える人たちが少ないという印象があります。
八百万の神がいる国なのに…。(笑)

私の祖母は、毎朝、仏壇と神棚にご飯とお茶を供えて、お経を読み、
それが済むまでは絶対に朝食をとりませんでした。
私の目から見ると、祖母は信心深い人の1人でした。
どの宗教の神様に対しても、畏敬の念を抱く人で、
キリスト教の礼拝に出席しても、感謝できる素直な信仰の持ち主でした。

李登輝氏が必死で求め続けていたのは「極意以上のこと」。
“個人的な欲や物質主義から超越した、
 もう一つ高い形而上学的なもの”と書かれていましたよね。
我欲や物を求めるという低レベルな次元で生きることで得られる満足感ではなく、
もう一つ高い次元で得られる真の幸せを切に求めておられたのでしょう。

「何故だ?」「これは、どう理解すれば良いのだ?」という風に、
自分の頭で宗教や信仰を理解するのではなく、
李登輝氏がおっしゃるように“信仰というのは理性ではない”わけです。
「信仰する」ということは、頭で「こう信じなければならない」ということではなく、
心から素直に「こういうことなのだ」と受け入れることのように思います。
「神」という存在がいることをベースに宗教が成立しているとするなら、
「神」を否定せず、「神」を受け入れ、「神」の仰せに従って生きること。
そして、これらのことに何の疑いも持たず、素直でいること。
それが「信仰」ということなのだろうと思っています。




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