克己

2018/07/02 (月)  カテゴリー/本のご紹介

現在、ご紹介を続けておりますこちらの本。

「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは (小学館文庫)


皆さん、結構興味を持ってご覧下さっているようで嬉しいです♪
それでは、今日も印象的だった個所をご紹介します。

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第十章 武士の教育および訓練
(略)
知識でなく品性が、頭脳でなく霊魂が琢磨啓発の素材として選ばれる時、
教師の職業は神聖なる性質を帯びる。
「我を生みしは父母である。我を人たらしむるは師である」。
この観念をもってするが故に、師たるものの受くる尊敬は極めて高くあった。
かかる信頼と尊敬とを青少年より喚び出すほどの人物は、
必然的に優れたる人格を有しかつ学識を兼ね備えていなければならなかった。
彼は、父なき者の父たり、迷える者の助言者であった。
語に曰く、「父母は天地のごとく、師君は日月のごとし」と。
あらゆる種類の仕事に対し報酬を与える現代の制度は、
武士道の信奉者の間には行われなかった。
金銭なく価格なくしてのみなされうる仕事のあることを、武士道は信じた。
僧侶の仕事にせよ、教師の仕事にせよ、
霊的の勤労は金銀をもって支払わるべきでなかった。
価値がないからではない、評価しえざるが故であった。
(略)


第十一章 克己
(略)
しかして克己の理想とするところは、
我が国民の表現にしたがえば心を平らかならしむるにあり、
あるいはギリシャ語を借りて言えば、
デモクリトスが至高善と呼びしところのエウテミヤ
(何ものにも動かされぬ内心の平安。「晴朗」「快活」「静穏」と訳される)
の状態に到達するにある。

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まず、前半。
「師」というものが、本当の聖職だった頃、
その「師」が持つ人格、品格、霊性は必然的に尊敬に値するレベルのものであり、
なおかつ知識や教養は当然、必須だったわけです。

本文中の“僧侶の仕事にせよ、教師の仕事にせよ、
霊的の勤労は金銀をもって支払わるべきでなかった。
価値がないからではない、評価しえざるが故であった”という表現は、
ベースに武士道の価値観があってこその考え方だな~と思いました。
現代の教師職というのは、もはや聖職ではなくなった感があります。
「教える」ということを仕事としているサラリーマン…というか。
もちろん、私の友人たちもたくさん教師として働いているので、
全員が全員、そうだというつもりは毛頭ありません。
子どもたちのために、自分の時間を犠牲にして、必死で働いています。
ただ単に、昔々と比べると…ということです。
時代の流れに沿ってやってきた結果が、この状態だということです。

そして、後半。
“克己の理想とするところは、心を平らかならしむるにあり、
 エウテミヤ (何ものにも動かされぬ内心の平安) の状態に到達するにある”
というのも、なるほど~と思わされました。
そもそも「克己」とは、デジタル大辞泉によれば、
自分の感情・欲望・邪念などにうちかつこと…と説明されています。
つまり、自我に打ち勝ち、心を平穏に保てる状態に至るというのが、
克己の理想だと、李登輝氏はおっしゃっているわけです。

私がここ数年、ひたすら自分自身と向き合い、
「私がこの人生で絶対に手に入れたいものはいったい何なのか?」
…について知ろうと努力し続けた結果、出た答えが「心の平穏」でした。
ですから、そんな私には、李登輝氏が書かれた文章が胸に深く入ってきました。
皆さんは、どのように感じられたでしょうか。




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