それでは、今回は予告通り、
前回の続き、後編をご紹介します。
================================
(略)
《(略)
――男女間の相対的なる社会的地位を比較すべき正確なる標準は何か。
女子の地位を男子のそれと比較するに当たり、
銀の価値を金の価値と比較するがごとくにして
その比率を数字的に出すことが正しいか、それで足るか。
かかる計算の方法は、人間のもつ最も重要なる種類の価値、
すなわち内在的価値を考察の外に置くものである。
男女おのおのその地上における使命を果たすために
必要とせらるる視覚の種々多様なることを考えれば、
両者の相対的地位を計るために用いられるべき尺度は
複合的性質のものでなければならない。
すなわち経済学の用語を借りれば、複本位でなければならない。
武士道は、それ自身の本位を有した。それは両本位であった。
すなわち、女子の評価をば戦場ならびに炉辺によって計ったのである。
前者においては女子は甚だ軽く評価せられたが、後者においては完全であった。
女子に与えられたる待遇は、この二重の評価に応じた。
(略)》
日本の戦後教育の流れの中では、いわゆる「複線型教育」、
すなわちそれぞれの生徒の個性に応じて多種多様なコースを設けることですら、
「差別主義」だとか、「非民主的」だなどと批判する
一部勢力が強い影響力を持っていました。
(略)そして、クラス全体の子供が算数も理科も国語も、
みんな満遍なく平均点を取って「偏差値」を押し上げることだけに懸命になったのです。
それこそが「民主主義」だと思いこんできたからでしょう。
もちろん、「女子教育」に関しても、
「男と女は平等であるべきだ」などというドグマに支配されているから、
男女の役割の違いといったような本質的な「区別」さえも理解できぬまま、
何でもかんでも「差別」だと騒ぎ立てる傾向があるようです。
(略)
要するに「餅は餅屋」で良いのではないでしょうか。
新渡戸先生がこの『武士道』の中で言わんとしているのもまさにその一点だけであり、
決して「差別」を煽り立てているわけではありません。(略)
既に百年以上も前にこういう大切なことを言っていた人がいたというのに、
いったいどこで、戦後日本の教育は方向を取り違えてしまったのか、
私は本当に不思議でしようがありません。
いまこそ、「真に民主的で平等な教育とは何か?」という問題を
真剣に考えてみるべきではないでしょうか。
その有力な手がかりとして、
日本人には「武士道」という輝かしい民族の文化遺産があるのだ、
という誇りと自信を取り戻すべきではありませんか?
「吾人が差異と不平等との区別を学ばざる限り」
――つまり私たちが、区別と差別を混同しているようでは、
女性の地位と役割についていつまでも誤解は解けないということを、
新渡戸先生は既に百年以上も前に述べているのです。
「教育」というのは、結局、『武士道』にも出てくるように、
精神的な価値観や肉体的な価値観を尺度にして、
ただ単純に「平等」かどうかなどと論議するものではなく、
もっと深く個々の人間の性格や能力の差異(決して差別ではない)に着目して、
複合的かつ多面的に判断していくべきものではないか、と思います。
いたずらに平等、平等と騒ぐのは、かえって「悪平等」につながる危険性のほうが強い。
本当の「教育」とは、やはり一人一人の人間の内在的を重視して、
各人の特性を生かして行うべきものなのです。
(略)
もちろん、「政治改革」や「経済改革」なども大切ですが、
国家にとって何よりも大事なのは人間なのだから、
個性豊かな子供たちがつくる「多様な社会」をつくり上げていくためにも、
何と言っても「教育改革」がいちばん大切だと思います。
そして、そのさらに向こうには「心霊(精神)改革」がなければならないのです。
(略)
================================
前回の前編に引き続き、今回の後編をお読みになり、
皆さんはどのようにお感じになったでしょうか。
男と女は、体のつくりも体力も違うことが明白なのにもかかわらず、
それぞれ得意とする部分をより伸ばすことよりも、
男女の差がないように努力をする…というのも、
たしかに、ちょっと違うようにも感じます。
「差別」はせず、「区別」をすることが大切なのに、
いつの間にやら、「区別」=「差別」ってことになってしまったのでしょう。
李登輝氏がおっしゃっているように、
“「教育」というのは、精神的な価値観や肉体的な価値観を尺度にして、
ただ単純に「平等」かどうかなどと論議するものではなく、
もっと深く個々の人間の性格や能力の差異(決して差別ではない)に着目して、
複合的かつ多面的に判断していくべき”
“本当の「教育」とは、やはり一人一人の人間の内在的を重視して、
各人の特性を生かして行うべきもの”
だろうと思います。
多くの自然災害に見舞われ続けている今年の日本。
横並びの教育ではなく、個性豊かな教育をしなければ、
同じような解決策しか発想できないようになってしまうのではないでしょうか。
日本国民がもっともっと「多様性」を受け入れ、それを伸ばしていくことが、
これからの日本を支えていける人材育成に繋がるように思えます。
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(略)
《(略)
――男女間の相対的なる社会的地位を比較すべき正確なる標準は何か。
女子の地位を男子のそれと比較するに当たり、
銀の価値を金の価値と比較するがごとくにして
その比率を数字的に出すことが正しいか、それで足るか。
かかる計算の方法は、人間のもつ最も重要なる種類の価値、
すなわち内在的価値を考察の外に置くものである。
男女おのおのその地上における使命を果たすために
必要とせらるる視覚の種々多様なることを考えれば、
両者の相対的地位を計るために用いられるべき尺度は
複合的性質のものでなければならない。
すなわち経済学の用語を借りれば、複本位でなければならない。
武士道は、それ自身の本位を有した。それは両本位であった。
すなわち、女子の評価をば戦場ならびに炉辺によって計ったのである。
前者においては女子は甚だ軽く評価せられたが、後者においては完全であった。
女子に与えられたる待遇は、この二重の評価に応じた。
(略)》
日本の戦後教育の流れの中では、いわゆる「複線型教育」、
すなわちそれぞれの生徒の個性に応じて多種多様なコースを設けることですら、
「差別主義」だとか、「非民主的」だなどと批判する
一部勢力が強い影響力を持っていました。
(略)そして、クラス全体の子供が算数も理科も国語も、
みんな満遍なく平均点を取って「偏差値」を押し上げることだけに懸命になったのです。
それこそが「民主主義」だと思いこんできたからでしょう。
もちろん、「女子教育」に関しても、
「男と女は平等であるべきだ」などというドグマに支配されているから、
男女の役割の違いといったような本質的な「区別」さえも理解できぬまま、
何でもかんでも「差別」だと騒ぎ立てる傾向があるようです。
(略)
要するに「餅は餅屋」で良いのではないでしょうか。
新渡戸先生がこの『武士道』の中で言わんとしているのもまさにその一点だけであり、
決して「差別」を煽り立てているわけではありません。(略)
既に百年以上も前にこういう大切なことを言っていた人がいたというのに、
いったいどこで、戦後日本の教育は方向を取り違えてしまったのか、
私は本当に不思議でしようがありません。
いまこそ、「真に民主的で平等な教育とは何か?」という問題を
真剣に考えてみるべきではないでしょうか。
その有力な手がかりとして、
日本人には「武士道」という輝かしい民族の文化遺産があるのだ、
という誇りと自信を取り戻すべきではありませんか?
「吾人が差異と不平等との区別を学ばざる限り」
――つまり私たちが、区別と差別を混同しているようでは、
女性の地位と役割についていつまでも誤解は解けないということを、
新渡戸先生は既に百年以上も前に述べているのです。
「教育」というのは、結局、『武士道』にも出てくるように、
精神的な価値観や肉体的な価値観を尺度にして、
ただ単純に「平等」かどうかなどと論議するものではなく、
もっと深く個々の人間の性格や能力の差異(決して差別ではない)に着目して、
複合的かつ多面的に判断していくべきものではないか、と思います。
いたずらに平等、平等と騒ぐのは、かえって「悪平等」につながる危険性のほうが強い。
本当の「教育」とは、やはり一人一人の人間の内在的を重視して、
各人の特性を生かして行うべきものなのです。
(略)
もちろん、「政治改革」や「経済改革」なども大切ですが、
国家にとって何よりも大事なのは人間なのだから、
個性豊かな子供たちがつくる「多様な社会」をつくり上げていくためにも、
何と言っても「教育改革」がいちばん大切だと思います。
そして、そのさらに向こうには「心霊(精神)改革」がなければならないのです。
(略)
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前回の前編に引き続き、今回の後編をお読みになり、
皆さんはどのようにお感じになったでしょうか。
男と女は、体のつくりも体力も違うことが明白なのにもかかわらず、
それぞれ得意とする部分をより伸ばすことよりも、
男女の差がないように努力をする…というのも、
たしかに、ちょっと違うようにも感じます。
「差別」はせず、「区別」をすることが大切なのに、
いつの間にやら、「区別」=「差別」ってことになってしまったのでしょう。
李登輝氏がおっしゃっているように、
“「教育」というのは、精神的な価値観や肉体的な価値観を尺度にして、
ただ単純に「平等」かどうかなどと論議するものではなく、
もっと深く個々の人間の性格や能力の差異(決して差別ではない)に着目して、
複合的かつ多面的に判断していくべき”
“本当の「教育」とは、やはり一人一人の人間の内在的を重視して、
各人の特性を生かして行うべきもの”
だろうと思います。
多くの自然災害に見舞われ続けている今年の日本。
横並びの教育ではなく、個性豊かな教育をしなければ、
同じような解決策しか発想できないようになってしまうのではないでしょうか。
日本国民がもっともっと「多様性」を受け入れ、それを伸ばしていくことが、
これからの日本を支えていける人材育成に繋がるように思えます。
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Last Modified : 2018-07-14