皆さんも、こちらの本から大切な学びを得られているのではないでしょうか。
今日は、人生をどう見るかによって、幸不幸が決まる…というお話です。
それでは、ご覧下さい。
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第三章 変えてゆくことができる
●闇から光へ、人生を転じる
京都駅で拾ったタクシーの運転手が語りかけてきました。
(略)
「私は高校三年生の三学期に両親を一緒に亡くしました。
(略)借金はありませんでしたが、一銭の蓄えもありませんでした。
私の下に五歳の妹がおりました。(略)
私は五歳の妹を連れ、最小限度の荷物を持ち、安い六畳一部屋を借りて出ました。
両親に代わって妹を育てなきゃならないと思って、私は夢中になって働きました。
朝は新聞配達、昼は勤め、夜はアルバイトと目茶苦茶働いて、
二十二、三歳のときには、安いアパートを買うほどの金は作りました。(略)
狭い家で育ったから妹は整理の名人になり、
今大きな家にご縁をいただいておりますが、きれいに整頓されております。
考えてみましたら私なんか、もし両親が元気でいてくれたら、
今ごろ暴走族か突っ張り族か、ろくな人間にしかなっていなかったと思います。
もし両親が死んでくれても、金を残してくれたら今の私はなく、
また妹がいなかったら淋しくてぐれていたでしょう。
両親はいない、金はない、幼い妹がいる。私は本気にならざるを得ませんでした。
私を本気にしてくれ、一人前の大人にしてくれ、男にしてくれたのは、
両親が死んでくれたお蔭、金を残してくれなかったお陰、
家主が追い出してくれたお蔭、幼い妹をつけてくれたお蔭と思い、
毎日両親の位牌に感謝の線香をあげております。
何もかも私を一人前の大人にするためのおはからいと感謝しております。(略)」
(略)
お釈迦さまは、この世の中には四種類の人がある、と説かれました。
「闇から闇へゆく人、闇から光へゆく人、光から闇へゆく人、光から光へゆく人」と。
人生の幸、不幸を、光とか闇という言葉で表現することができるでしょう。(略)
この四種類の人の話から二つの教えを学ぶことができる、と、
唯識学の泰斗の太田久紀先生は語ります。
一つは「人生、変えてゆくことができる」ということ。(略)
二つめは「変えてゆく主人公は私であり、
その私の今日只今をどう生きるかにかかる」ということです。(略)
人生は絶対に代わってもらうことも助けてもらうこともできません。
私の人生をどう築きあげてゆくか、どう変えてゆくかの主人公は私でしかないのです。
心して自分の人生を光あるものへと転じてゆきたいと思います。
============================
人生には、何度か逆境に立たされる時があります。
これでもか! これでもか! と、この世的な目で見れば、
どう考えても「不幸」としか思えない災難に襲われ続けることもあります。
でも、そこでめげてしまう人もいれば、「なにクソ!」と頑張ることができる人もいる。
今、自分が置かれている状況を、単に嘆き続けるだけで一生を終ってしまうのか、
それとも、一発逆転を狙うのかは、自分次第なのです。
自分の人生の舵を他人に預けて、思いもよらないところにゴールした後で、
「なんでこんなところに連れてきたんだ!」と、文句だけいう人がいます。
自分で自分の人生の舵を握らないということは、人生を放棄したということ。
だから、どこに連れていかれても、本来は文句など言えないのです。
自分でゴールを決めることもできず、他人に舵を預けた自分の責任なのです。
私たちは、自分の人生に責任を持たねばなりません。
人生が悪い方へ進んでいると感じれば、舵をよい方向へ切らねばならないのです。
やるべきことをやらず、不平不満だけを口にし続けるのは、
人として如何なものかと思います。
自分の人生は、自分だけのものです。
誰も責任など取ってくれません。
自分に残された人生をどのようなものにするかは、自分自身にかかっているのです。
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第三章 変えてゆくことができる
●闇から光へ、人生を転じる
京都駅で拾ったタクシーの運転手が語りかけてきました。
(略)
「私は高校三年生の三学期に両親を一緒に亡くしました。
(略)借金はありませんでしたが、一銭の蓄えもありませんでした。
私の下に五歳の妹がおりました。(略)
私は五歳の妹を連れ、最小限度の荷物を持ち、安い六畳一部屋を借りて出ました。
両親に代わって妹を育てなきゃならないと思って、私は夢中になって働きました。
朝は新聞配達、昼は勤め、夜はアルバイトと目茶苦茶働いて、
二十二、三歳のときには、安いアパートを買うほどの金は作りました。(略)
狭い家で育ったから妹は整理の名人になり、
今大きな家にご縁をいただいておりますが、きれいに整頓されております。
考えてみましたら私なんか、もし両親が元気でいてくれたら、
今ごろ暴走族か突っ張り族か、ろくな人間にしかなっていなかったと思います。
もし両親が死んでくれても、金を残してくれたら今の私はなく、
また妹がいなかったら淋しくてぐれていたでしょう。
両親はいない、金はない、幼い妹がいる。私は本気にならざるを得ませんでした。
私を本気にしてくれ、一人前の大人にしてくれ、男にしてくれたのは、
両親が死んでくれたお蔭、金を残してくれなかったお陰、
家主が追い出してくれたお蔭、幼い妹をつけてくれたお蔭と思い、
毎日両親の位牌に感謝の線香をあげております。
何もかも私を一人前の大人にするためのおはからいと感謝しております。(略)」
(略)
お釈迦さまは、この世の中には四種類の人がある、と説かれました。
「闇から闇へゆく人、闇から光へゆく人、光から闇へゆく人、光から光へゆく人」と。
人生の幸、不幸を、光とか闇という言葉で表現することができるでしょう。(略)
この四種類の人の話から二つの教えを学ぶことができる、と、
唯識学の泰斗の太田久紀先生は語ります。
一つは「人生、変えてゆくことができる」ということ。(略)
二つめは「変えてゆく主人公は私であり、
その私の今日只今をどう生きるかにかかる」ということです。(略)
人生は絶対に代わってもらうことも助けてもらうこともできません。
私の人生をどう築きあげてゆくか、どう変えてゆくかの主人公は私でしかないのです。
心して自分の人生を光あるものへと転じてゆきたいと思います。
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人生には、何度か逆境に立たされる時があります。
これでもか! これでもか! と、この世的な目で見れば、
どう考えても「不幸」としか思えない災難に襲われ続けることもあります。
でも、そこでめげてしまう人もいれば、「なにクソ!」と頑張ることができる人もいる。
今、自分が置かれている状況を、単に嘆き続けるだけで一生を終ってしまうのか、
それとも、一発逆転を狙うのかは、自分次第なのです。
自分の人生の舵を他人に預けて、思いもよらないところにゴールした後で、
「なんでこんなところに連れてきたんだ!」と、文句だけいう人がいます。
自分で自分の人生の舵を握らないということは、人生を放棄したということ。
だから、どこに連れていかれても、本来は文句など言えないのです。
自分でゴールを決めることもできず、他人に舵を預けた自分の責任なのです。
私たちは、自分の人生に責任を持たねばなりません。
人生が悪い方へ進んでいると感じれば、舵をよい方向へ切らねばならないのです。
やるべきことをやらず、不平不満だけを口にし続けるのは、
人として如何なものかと思います。
自分の人生は、自分だけのものです。
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Last Modified : 2018-08-19