今日も、本当に良いお話だな~と感心した個所をご紹介します。
私の生き方に共通する部分も多いので、感動を覚えながら読みました。
では、どうぞ。
===============================
第四章 他者と向き合う ~絶対不可侵領域を持った自己を育てる
◆群れから離れる
例えば、大学時代の友人たち、会社の同期や同僚たち。
“群れ”の中にいると、どんどん居心地がよくなっていく。
しかし、これは私の経験上もそうだったのだが、
群れの中にいればいるほど、自分の内面は弱くなっていくのだ。
自立心は削がれ、妥協の気持ちが大きくなり、甘えるようになる。
自分がどんどん失われていく。
居心地のいい群れの中を自覚したなら、そこから距離を置く意識を持つことだ。
あえて孤独になり、一人ぼっちになることである。
そうすることによって、このままでは大変になるという危機感や緊張感が生まれてくる。
群れから離れるというのは、自分の中で緊張感を高め、
危機感を生むための戦術である。
自分が一人で独立し、自立した形で生きていくための条件である。
まずは、意識レベルで群れから自分を切り離すことだ。
どうでもいい飲み会などには、行かない。
行くことによって安心する自分を、弱い自分として認める。
危機感と緊張感を自分で作り出してみる。
(略)
周りと同じような意見を持っているときには、
安心するのではなく、むしろ危機感を覚えなさい。
本当にそれでいいのかどうか。
群れの中ではスタンダードでも、大きな世界ではどうか。
(略)
実は自ら群れを出る勇気を持つと、
新たな人との関わりが大きな喜びになっていくものである。
人と出会ったり関わったりする喜びは、
群れを出ることによって、むしろ大きくなっていくのだ。
群れの中の一員としてではなく、
自立した一人の個としての関わりを実感できるからである。
(略)
◆自分だけの山を見つける
社会において山はひとつではない。
そして、与えられる山だけが、山なのではない。
実際、創造的な人材は、自ら山を見つけ、その山を登っていく。
一番高い山をみんなで競争しながら登るということではなく、
自分の山を見つけて登るのだ。
それは、社会に新しい価値を生む可能性を呼び込む。
自分なりの人生を生きるというとき、果たしてどちらの山が、登るべき山だろうか。
自分だけの人生の軌跡を描き、経路を作るには、どちらが有効だろうか。
そして今の時代には、どちらの山が求められているのだろうか。
実際には、社会に出たら、人生における山をいかにうまく自分でみつけられるか、
というところから勝負は始まると私は考えている。
みんなと同じ高い山を登ることには、
創造性が求められる今の時代、もはや大した意味はない。
なぜならそれは、所詮すでにある山だからだ。
むしろ、誰も登ったことのない山を見つけ、登ることこそが今は求められているし、
挑戦のしがいのある山なのだ。
そして登る自分も、自分の山を見つけた瞬間に、
たいへんなモチベーションがわき出てくる。
自分一人であっても、孤独であっても、黙々と登っていきたいと思える。
そう信じることができる山を見つけることこそ、重要なのである。
(略)
中途半端な努力で、中途半端な偶然が積み重なって、
中途半端な幸運に基づいて成功するより、自分で一生懸命苦悩して、
努力して、それで失敗したほうが、長期的には自分の人生のためになるのだ。
そして、周りのきまぐれな視線というものに振り回されなくなる。
(略)
自分で主体的に考えて、自分で主体的に選択をするという生き方ができれば、
人生は必ず豊かになり、常に成長が続く幸せなものになるはずである。
===============================
私は昔から、群れることがあまり好きではありませんでした。
もちろん、同じクラスにはいつも決まって遊ぶ友達もいましたし、
中学校の時も、高校の時も、今も強いきずなで結ばれている「親友」を得ました。
ただ、この親友たちも含めて、基本的に「群れないと安心できない」タイプではなく、
私と同様、一人で自立して生きることを苦と思わないタイプなんです。(笑)
十把一絡げ…という言葉があります。
これは、「一つ一つ取り上げるほどの価値がないものとしてひとまとめに扱うこと」
という意味だそうですが、私はこういった扱いをされたくない!と、
子どもの頃から強く思っていたのだろうと思います。
「群れる」ということは、自分自身の色が薄くなるという危機感があったんだろうと…。
独身時代、色々飲み会のお誘いを受けましたが、
「断ったら、もう誘ってくれなくなるかも…」
(つまり、友達がいなくなっちゃうかも…)
なんていう不安を抱いたことなど一度もなく、行きたくなければ行かない、
行きたいときには行く…という、単純明快な対応をしていました。
断ったくらいで切れる縁なら、そもそも大切にする必要などありません。
私には、私にふさわしい人が数人いれば、それで満足なのです。
友人は多ければ多いほど幸せ…なんてことはありません。
自分のことを本当に理解してくれる人が、1人か2人いさえすれば、
十分幸せに生きていけるのです。
そして後半。
「一番高い山をみんなで競争しながら登るということではなく、
自分の山を見つけて登る」という表現、私はとっても好きです。
「みんなと同じ高い山を登ることには、
創造性が求められる今の時代、もはや大した意味はない」とありましたが、
本当に、その通りだと思います。
「誰も登ったことのない山を見つけ、登ることこそが今は求められているし、
挑戦のしがいのある山」
「自分の山を見つけた瞬間に、たいへんなモチベーションがわき出てくる。
自分一人であっても、孤独であっても、黙々と登っていきたいと思える。
そう信じることができる山を見つけることこそ、重要」
とも書かれていますが、私はここ数年の時間をかけて、
自分が登るき山、誰も登ったことのない山を見つけ、
そして今、じっくりとその山を登り始めています。
書かれている通り、自分の山を見つけてしまうと、
想像をはるかに超えるエネルギーが、体中から湧き上がってくるのです。
一緒に登る仲間はいません。孤独な闘いです。
でも、これがものすごく面白い!!
「自分で主体的に考えて、自分で主体的に選択をするという生き方ができれば、
人生は必ず豊かになり、常に成長が続く幸せなものになる」というのは、真実です。
皆さんもぜひ、自分が登るべき山を見つけて下さい。
年齢は…、関係ありませんよ!(笑)
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私の生き方に共通する部分も多いので、感動を覚えながら読みました。
では、どうぞ。
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第四章 他者と向き合う ~絶対不可侵領域を持った自己を育てる
◆群れから離れる
例えば、大学時代の友人たち、会社の同期や同僚たち。
“群れ”の中にいると、どんどん居心地がよくなっていく。
しかし、これは私の経験上もそうだったのだが、
群れの中にいればいるほど、自分の内面は弱くなっていくのだ。
自立心は削がれ、妥協の気持ちが大きくなり、甘えるようになる。
自分がどんどん失われていく。
居心地のいい群れの中を自覚したなら、そこから距離を置く意識を持つことだ。
あえて孤独になり、一人ぼっちになることである。
そうすることによって、このままでは大変になるという危機感や緊張感が生まれてくる。
群れから離れるというのは、自分の中で緊張感を高め、
危機感を生むための戦術である。
自分が一人で独立し、自立した形で生きていくための条件である。
まずは、意識レベルで群れから自分を切り離すことだ。
どうでもいい飲み会などには、行かない。
行くことによって安心する自分を、弱い自分として認める。
危機感と緊張感を自分で作り出してみる。
(略)
周りと同じような意見を持っているときには、
安心するのではなく、むしろ危機感を覚えなさい。
本当にそれでいいのかどうか。
群れの中ではスタンダードでも、大きな世界ではどうか。
(略)
実は自ら群れを出る勇気を持つと、
新たな人との関わりが大きな喜びになっていくものである。
人と出会ったり関わったりする喜びは、
群れを出ることによって、むしろ大きくなっていくのだ。
群れの中の一員としてではなく、
自立した一人の個としての関わりを実感できるからである。
(略)
◆自分だけの山を見つける
社会において山はひとつではない。
そして、与えられる山だけが、山なのではない。
実際、創造的な人材は、自ら山を見つけ、その山を登っていく。
一番高い山をみんなで競争しながら登るということではなく、
自分の山を見つけて登るのだ。
それは、社会に新しい価値を生む可能性を呼び込む。
自分なりの人生を生きるというとき、果たしてどちらの山が、登るべき山だろうか。
自分だけの人生の軌跡を描き、経路を作るには、どちらが有効だろうか。
そして今の時代には、どちらの山が求められているのだろうか。
実際には、社会に出たら、人生における山をいかにうまく自分でみつけられるか、
というところから勝負は始まると私は考えている。
みんなと同じ高い山を登ることには、
創造性が求められる今の時代、もはや大した意味はない。
なぜならそれは、所詮すでにある山だからだ。
むしろ、誰も登ったことのない山を見つけ、登ることこそが今は求められているし、
挑戦のしがいのある山なのだ。
そして登る自分も、自分の山を見つけた瞬間に、
たいへんなモチベーションがわき出てくる。
自分一人であっても、孤独であっても、黙々と登っていきたいと思える。
そう信じることができる山を見つけることこそ、重要なのである。
(略)
中途半端な努力で、中途半端な偶然が積み重なって、
中途半端な幸運に基づいて成功するより、自分で一生懸命苦悩して、
努力して、それで失敗したほうが、長期的には自分の人生のためになるのだ。
そして、周りのきまぐれな視線というものに振り回されなくなる。
(略)
自分で主体的に考えて、自分で主体的に選択をするという生き方ができれば、
人生は必ず豊かになり、常に成長が続く幸せなものになるはずである。
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私は昔から、群れることがあまり好きではありませんでした。
もちろん、同じクラスにはいつも決まって遊ぶ友達もいましたし、
中学校の時も、高校の時も、今も強いきずなで結ばれている「親友」を得ました。
ただ、この親友たちも含めて、基本的に「群れないと安心できない」タイプではなく、
私と同様、一人で自立して生きることを苦と思わないタイプなんです。(笑)
十把一絡げ…という言葉があります。
これは、「一つ一つ取り上げるほどの価値がないものとしてひとまとめに扱うこと」
という意味だそうですが、私はこういった扱いをされたくない!と、
子どもの頃から強く思っていたのだろうと思います。
「群れる」ということは、自分自身の色が薄くなるという危機感があったんだろうと…。
独身時代、色々飲み会のお誘いを受けましたが、
「断ったら、もう誘ってくれなくなるかも…」
(つまり、友達がいなくなっちゃうかも…)
なんていう不安を抱いたことなど一度もなく、行きたくなければ行かない、
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自分のことを本当に理解してくれる人が、1人か2人いさえすれば、
十分幸せに生きていけるのです。
そして後半。
「一番高い山をみんなで競争しながら登るということではなく、
自分の山を見つけて登る」という表現、私はとっても好きです。
「みんなと同じ高い山を登ることには、
創造性が求められる今の時代、もはや大した意味はない」とありましたが、
本当に、その通りだと思います。
「誰も登ったことのない山を見つけ、登ることこそが今は求められているし、
挑戦のしがいのある山」
「自分の山を見つけた瞬間に、たいへんなモチベーションがわき出てくる。
自分一人であっても、孤独であっても、黙々と登っていきたいと思える。
そう信じることができる山を見つけることこそ、重要」
とも書かれていますが、私はここ数年の時間をかけて、
自分が登るき山、誰も登ったことのない山を見つけ、
そして今、じっくりとその山を登り始めています。
書かれている通り、自分の山を見つけてしまうと、
想像をはるかに超えるエネルギーが、体中から湧き上がってくるのです。
一緒に登る仲間はいません。孤独な闘いです。
でも、これがものすごく面白い!!
「自分で主体的に考えて、自分で主体的に選択をするという生き方ができれば、
人生は必ず豊かになり、常に成長が続く幸せなものになる」というのは、真実です。
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Last Modified : 2018-10-06