2月もあと少しとなってきました。
2月は逃げる…とは、よく言ったものですね。(笑)
さて、今日からはこちらの本をご紹介したいと思います。

御存知、カトリックの修道女でいらっしゃった渡辺和子さんの著書です。
お父様は日本史で有名な二・二六事件」で、
和子さんの目の前で、青年将校らに銃撃され殺害されました。
渡辺さんが書かれた本は、これまでに何冊か読ませて頂きましたが、
この本は遺作となった作品で、渡辺さんのご著書の中では、
私の一番のお気に入りです。
それでは、印象的だった個所をいつものようにご紹介します。
=========================
第3章 祈ること、願いが叶うということ
●願いはすべて聞き届けられる
ニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁に
一人の患者の残した詩があるということです。
日本語に訳してみますと、次のようになります。
大きなことを成しとげるために力を与えてほしいと神に求めたのに、
謙遜を学ぶようにと弱さを授かった。
より偉大なことができるように健康を求めたのに、
より良きことができるようにと病弱を与えられた。
幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、
得意にならないようにと失敗を授かった。
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。
神の意にそわぬものであるにもかかわらず、
心の中の言い表せないものは、すべて叶えられた。
私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ。
一九九○年の夏、私は米国のセントルイスという街を訪ね、
たまたまイエズス会の修道院に、この原文を見つけました。
それはJ・ロジャー・ルーシーという神父が書いたものだということでした。
多分、思わぬ病気か怪我をして、自分の“欲した”ことが成しとげられず、
苦しみ、その苦しみのあげくの果てに到達した境地なのでしょう。
(略)
願ったことが
一つも叶わなくても、
すべて叶えられたという境地。
ありがたくないものをくださるのは神様のはからい。
それに気づくのは、苦しみや悲しみを乗り越えたあと。
=========================
私は、渡辺さんが紹介して下さったこの詩を読んだ時、
心から感動し、何度も読み返して深く味わいました。
皆さんは、どのように受け止められましたでしょうか?
私はトータルで見れば十数年、特にここ数年間、
本当に厳しい道を通らなければならず、
心身ともに、辛い経験をしてきました。
そして、その逆境からようやく自力で立ち直り、
明るい未来に向かって、一歩一歩足を進めているところです。
そんな自分にとって、この詩は本当に共感できるものであり、
また、感動と勇気を与えてくれるものでした。
一般的に、自分が自分の価値観を基にして神に望み求めるものは、
きっと、この世的なものでしかないのでしょう。
詩から抜粋すれば、それらは、
「力」「健康」「富」「賞賛」「享楽」とあります。
そして、神から与えられたものを抜粋すると、
「謙遜」「病弱」「貧困」「失敗」「生命」とあります。
前者と後者を比較すれば、一目瞭然。
神から与えられたものは、そのほとんどが、
この世的な価値観で考えれば、あまり有難くないと思われます。
しかし、この詩の作者は次のように語ります。
「求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた」
「心の中の言い表せないものは、すべて叶えられた」
「私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福された」
…と。
実は私も、自分が望んだものが与えられているわけではなく、
自分が望んではいなかったものが与えられている状況にあると思います。
しかし、この詩の作者と同じように、「自分の望みが叶えられた」だけではなく、
自分が望みもしていなかった、さらに大いなるものを与えられた…、
つまり、「私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福された」という実感を持ち、
日々を生きることができていることに、感謝が溢れてきているのです。
渡辺さんが、「ありがたくないものをくださるのは神様のはからい。
それに気づくのは、苦しみや悲しみを乗り越えたあと」と書かれていますが、
私も、苦しみや悲しみを乗り越えた「幸せを噛みしめて生きている」今だからこそ、
なぜ、あのような「ありがたくないもの」が与えられたのか、
その意味がよくわかるのです。
「ありがたくないもの」が与えられる前の自分と、
「ありがたくないもの」が与えられ、その中でもだえ苦しみ、
そして、そこを乗り越えた今の自分を比べると、
如何に今の自分が恵まれ、祝され、幸せなのかを痛感し、
感謝、感謝の日々を送れるようになったことは、本当に幸いだと思います。
幸せな人生を謳歌して生きられるようになったのは、
あの「ありがたくないもの」が与えられたからこそ。
以前の自分に戻りたくもないし、以前の人生の続きも送りたくありません。
今が、本当に幸せで仕方ないのです。(笑)
次回も、こちらの本からご紹介します。
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2月は逃げる…とは、よく言ったものですね。(笑)
さて、今日からはこちらの本をご紹介したいと思います。
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御存知、カトリックの修道女でいらっしゃった渡辺和子さんの著書です。
お父様は日本史で有名な二・二六事件」で、
和子さんの目の前で、青年将校らに銃撃され殺害されました。
渡辺さんが書かれた本は、これまでに何冊か読ませて頂きましたが、
この本は遺作となった作品で、渡辺さんのご著書の中では、
私の一番のお気に入りです。
それでは、印象的だった個所をいつものようにご紹介します。
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第3章 祈ること、願いが叶うということ
●願いはすべて聞き届けられる
ニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁に
一人の患者の残した詩があるということです。
日本語に訳してみますと、次のようになります。
大きなことを成しとげるために力を与えてほしいと神に求めたのに、
謙遜を学ぶようにと弱さを授かった。
より偉大なことができるように健康を求めたのに、
より良きことができるようにと病弱を与えられた。
幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、
得意にならないようにと失敗を授かった。
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。
神の意にそわぬものであるにもかかわらず、
心の中の言い表せないものは、すべて叶えられた。
私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ。
一九九○年の夏、私は米国のセントルイスという街を訪ね、
たまたまイエズス会の修道院に、この原文を見つけました。
それはJ・ロジャー・ルーシーという神父が書いたものだということでした。
多分、思わぬ病気か怪我をして、自分の“欲した”ことが成しとげられず、
苦しみ、その苦しみのあげくの果てに到達した境地なのでしょう。
(略)
願ったことが
一つも叶わなくても、
すべて叶えられたという境地。
ありがたくないものをくださるのは神様のはからい。
それに気づくのは、苦しみや悲しみを乗り越えたあと。
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私は、渡辺さんが紹介して下さったこの詩を読んだ時、
心から感動し、何度も読み返して深く味わいました。
皆さんは、どのように受け止められましたでしょうか?
私はトータルで見れば十数年、特にここ数年間、
本当に厳しい道を通らなければならず、
心身ともに、辛い経験をしてきました。
そして、その逆境からようやく自力で立ち直り、
明るい未来に向かって、一歩一歩足を進めているところです。
そんな自分にとって、この詩は本当に共感できるものであり、
また、感動と勇気を与えてくれるものでした。
一般的に、自分が自分の価値観を基にして神に望み求めるものは、
きっと、この世的なものでしかないのでしょう。
詩から抜粋すれば、それらは、
「力」「健康」「富」「賞賛」「享楽」とあります。
そして、神から与えられたものを抜粋すると、
「謙遜」「病弱」「貧困」「失敗」「生命」とあります。
前者と後者を比較すれば、一目瞭然。
神から与えられたものは、そのほとんどが、
この世的な価値観で考えれば、あまり有難くないと思われます。
しかし、この詩の作者は次のように語ります。
「求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた」
「心の中の言い表せないものは、すべて叶えられた」
「私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福された」
…と。
実は私も、自分が望んだものが与えられているわけではなく、
自分が望んではいなかったものが与えられている状況にあると思います。
しかし、この詩の作者と同じように、「自分の望みが叶えられた」だけではなく、
自分が望みもしていなかった、さらに大いなるものを与えられた…、
つまり、「私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福された」という実感を持ち、
日々を生きることができていることに、感謝が溢れてきているのです。
渡辺さんが、「ありがたくないものをくださるのは神様のはからい。
それに気づくのは、苦しみや悲しみを乗り越えたあと」と書かれていますが、
私も、苦しみや悲しみを乗り越えた「幸せを噛みしめて生きている」今だからこそ、
なぜ、あのような「ありがたくないもの」が与えられたのか、
その意味がよくわかるのです。
「ありがたくないもの」が与えられる前の自分と、
「ありがたくないもの」が与えられ、その中でもだえ苦しみ、
そして、そこを乗り越えた今の自分を比べると、
如何に今の自分が恵まれ、祝され、幸せなのかを痛感し、
感謝、感謝の日々を送れるようになったことは、本当に幸いだと思います。
幸せな人生を謳歌して生きられるようになったのは、
あの「ありがたくないもの」が与えられたからこそ。
以前の自分に戻りたくもないし、以前の人生の続きも送りたくありません。
今が、本当に幸せで仕方ないのです。(笑)
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Last Modified : 2019-02-21