またまた、随分と日が開いてしまいました。
オランダに住んでいた頃は、ほぼ毎日のように更新していたのに、
最近では1か月に1度更新すればよい…というペースに。
それは、忙しいからということだけではなく、
何かに執着するとか、世間的な価値とか、
そういった「どうでもよい」lことから解放され、
自分のペースで、自分が楽だと思える考え方をするように、
日々を生きられているからだろうと思います。
仕事も以前の状態に戻りつつあり、大変感謝な毎日です。
さて、今日は前回の記事の続きです。
=================================
●仏教ブーム
(略)
私は八十五年生きていますが、長い人生の中で、
いまが一番悪い時代だと感じております。
戦前や前後もひどい時代でしたら、支配層はともかく、
市井の市民の中には、今よりずっと多くの信じられる人々がいたような気がします。
いまは社会全体の質がどんどん劣化しているように感じるのです。
日本はいったいなぜ、こんなに悪くなってしまったのでしょう。
原因の第一は、文明の進歩です。
(略)
●殺してはならぬ
(略)
寂庵へも、よく怨みの苦しさを訴えに人が来られます。
そういう方たちは、一様に顔色が悪く、器量はよくとも精気がなく、
醜い鬼のような顔になってしまっています。
恨みの毒素が体にまわって、体も心も蝕まれてしまっているのです。
しばらくして、「もう怨むのはやめました」と言ってこられる方もいます。
そういう方は、表情に華やかさが戻り、怨みに凝り固まっていた時期より、
明らかに魅力的に見えます。
おそらく、その後幸せに暮らしていることと思います。
怨みの感情は、怨まれた人だけではなく、怨む人の心身まで蝕み、
幸せから遠ざけてしまうのです。
限りのある人生を、有意義に、幸せに生きるには、
怨みの感情にとらわれてはいけません。
お釈迦様は、それを教えていられるのです。
●拝金主義の行き着く先
(略)
この世にあるものはすべて自分の思いどおりにできると考える態度こそ、
この世を腐らせている思想の最たるものです。
「法句経」の中に、こんな詩句があります。
「わたしには子供がいる
わたしには財産がある」
愚かなものはそういっては
心を悩ませる
けれど私だってほんとは
わたしのものではない
だったらどうして子供が
わたしのものだろうか
財産がわたしのものだろうか
(法句経六二)
自分は自分が選んで今の姿に生れたわけではない。
つまり自分のものではない。
自分さえ自分のものではないのに、
どうして自分の配偶者、子供、財産が自分のものだろうか。
自分のものでないのだから、思うようにならないのは当然ではないか、というのです。
ここでいう「自分」、というのは体と心の両方です。
よく子供が親とけんかすると、
「産んでくれと言った覚えはない。勝手に産んだくせに」などといいますね。
とんでもない妄言ですが、一面の真実でもあります。
確かに、産んで欲しくて生まれてきた子はいないのです。
そして自分の体は、決して自分の思い通りになりません。
病気になりたくないと思っていても、なるときはなるし、
長生きしたいと思っても死ぬときは死ぬし、
死にたいと思っても死ねないときもあります。
もっと器量がよければもてたのに、とか、
もっと頭が良ければいい学校に入れたのに、と思っても、どうにもなりません。
心だってそうです。(略)
このように日常の中でさえも、思い通りになるものはない。
それなのに老いや死という、いわば極限状況について、
それを思うがままにしようというのは、もとより無理です。
自分の命は、自分のものではない。
こういう教えは、何も仏教だけのものではありません。
キリスト教も、やはり同じような教えを授けています。
世界宗教と言われる宗教はきっとみんなそうでしょう。
あらゆる宗教の淵源には、人知を超えた存在への畏れがあります。
この世には、人間にはどうしてもコントロールできない領域のものがある。
だからそれをぜんぶ自分でコントロールできると考えるのは、非常に傲慢なことです。
でも、現代はそう考える人が多いですね。
畏れを知ること。
これが大事です。
=================================
今日ご紹介した個所は3つ。
まず、最初の個所では、
「日本はいったいなぜ、こんなに悪くなってしまったのでしょう。
原因の第一は、文明の進歩です」
というところが、印象に残りました。
今回のコロナ騒動で気づいた方も多いとは思いますが、
文明を進化させるために、人間が代償として払ってきたものの多さ。
それが原因で、日本が悪くなってしまったのではないかと、著者は言っているわけです。
そして次のパート。
ここで1番大切なのは、
「怨みの感情は、怨まれた人だけではなく、怨む人の心身まで蝕み、
幸せから遠ざけてしまう」というところ。
普通に生活している私たちは、いつ何時不条理な罠に嵌り、
予想していなかった苦境に立たされるかわかりません。
事実無根の誹謗中傷を受けてしまうこともあります。
そういったとき、「元凶となった人を怨む」という気持ちが生じるのは、
ごく自然なことともいえるでしょう。
しかし、怨まれた人が幸せから遠ざかるのはともかくとして、
怨んでいる当人が幸せから遠ざかってしまうというのは、残念なこと。
だから、「相手を不幸にしたい」という思いよりも、
「自分は不幸になりたくない」という思いを強く持てばよいのです。
自分が幸せになるために、どうすればいいのか?
それは、誰かを怨みながら生きていくのではなく、
ひたすら自分が気持ちいいと思える考えと行動に基づいて生活すること。
怨む気持ちにとらわれないことが重要だと、著者は言っています。
最後のパート。
ここでは、とても大切なことを言っていますね。
「この世にあるものはすべて自分の思いどおりにできると考える態度こそ、
この世を腐らせている思想の最たるもの」
今回のコロナ騒動も、「そんなふうにはいかないぞ」という、
自然界からのメッセージなのではないか? そんな気がします。
「あらゆる宗教の淵源には、人知を超えた存在への畏れがあります。
この世には、人間にはどうしてもコントロールできない領域のものがある。
だからそれをぜんぶ自分でコントロールできると考えるのは、非常に傲慢なことです」
「畏れを知ること。 これが大事です」
本当に、その通りだな~と思います。
サムシング・グレートでも、神でも、宇宙のパワーでも、何でも良いのです。
とにかく、人間の力ではコントロール不能なことが
世の中にはたくさんあることを認識し、
人知を超えた存在に対して、畏敬の念を抱いて生きること。
それが、私たちが幸せに生きていくためにとても重要なことなのです。
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オランダに住んでいた頃は、ほぼ毎日のように更新していたのに、
最近では1か月に1度更新すればよい…というペースに。
それは、忙しいからということだけではなく、
何かに執着するとか、世間的な価値とか、
そういった「どうでもよい」lことから解放され、
自分のペースで、自分が楽だと思える考え方をするように、
日々を生きられているからだろうと思います。
仕事も以前の状態に戻りつつあり、大変感謝な毎日です。
さて、今日は前回の記事の続きです。
=================================
●仏教ブーム
(略)
私は八十五年生きていますが、長い人生の中で、
いまが一番悪い時代だと感じております。
戦前や前後もひどい時代でしたら、支配層はともかく、
市井の市民の中には、今よりずっと多くの信じられる人々がいたような気がします。
いまは社会全体の質がどんどん劣化しているように感じるのです。
日本はいったいなぜ、こんなに悪くなってしまったのでしょう。
原因の第一は、文明の進歩です。
(略)
●殺してはならぬ
(略)
寂庵へも、よく怨みの苦しさを訴えに人が来られます。
そういう方たちは、一様に顔色が悪く、器量はよくとも精気がなく、
醜い鬼のような顔になってしまっています。
恨みの毒素が体にまわって、体も心も蝕まれてしまっているのです。
しばらくして、「もう怨むのはやめました」と言ってこられる方もいます。
そういう方は、表情に華やかさが戻り、怨みに凝り固まっていた時期より、
明らかに魅力的に見えます。
おそらく、その後幸せに暮らしていることと思います。
怨みの感情は、怨まれた人だけではなく、怨む人の心身まで蝕み、
幸せから遠ざけてしまうのです。
限りのある人生を、有意義に、幸せに生きるには、
怨みの感情にとらわれてはいけません。
お釈迦様は、それを教えていられるのです。
●拝金主義の行き着く先
(略)
この世にあるものはすべて自分の思いどおりにできると考える態度こそ、
この世を腐らせている思想の最たるものです。
「法句経」の中に、こんな詩句があります。
「わたしには子供がいる
わたしには財産がある」
愚かなものはそういっては
心を悩ませる
けれど私だってほんとは
わたしのものではない
だったらどうして子供が
わたしのものだろうか
財産がわたしのものだろうか
(法句経六二)
自分は自分が選んで今の姿に生れたわけではない。
つまり自分のものではない。
自分さえ自分のものではないのに、
どうして自分の配偶者、子供、財産が自分のものだろうか。
自分のものでないのだから、思うようにならないのは当然ではないか、というのです。
ここでいう「自分」、というのは体と心の両方です。
よく子供が親とけんかすると、
「産んでくれと言った覚えはない。勝手に産んだくせに」などといいますね。
とんでもない妄言ですが、一面の真実でもあります。
確かに、産んで欲しくて生まれてきた子はいないのです。
そして自分の体は、決して自分の思い通りになりません。
病気になりたくないと思っていても、なるときはなるし、
長生きしたいと思っても死ぬときは死ぬし、
死にたいと思っても死ねないときもあります。
もっと器量がよければもてたのに、とか、
もっと頭が良ければいい学校に入れたのに、と思っても、どうにもなりません。
心だってそうです。(略)
このように日常の中でさえも、思い通りになるものはない。
それなのに老いや死という、いわば極限状況について、
それを思うがままにしようというのは、もとより無理です。
自分の命は、自分のものではない。
こういう教えは、何も仏教だけのものではありません。
キリスト教も、やはり同じような教えを授けています。
世界宗教と言われる宗教はきっとみんなそうでしょう。
あらゆる宗教の淵源には、人知を超えた存在への畏れがあります。
この世には、人間にはどうしてもコントロールできない領域のものがある。
だからそれをぜんぶ自分でコントロールできると考えるのは、非常に傲慢なことです。
でも、現代はそう考える人が多いですね。
畏れを知ること。
これが大事です。
=================================
今日ご紹介した個所は3つ。
まず、最初の個所では、
「日本はいったいなぜ、こんなに悪くなってしまったのでしょう。
原因の第一は、文明の進歩です」
というところが、印象に残りました。
今回のコロナ騒動で気づいた方も多いとは思いますが、
文明を進化させるために、人間が代償として払ってきたものの多さ。
それが原因で、日本が悪くなってしまったのではないかと、著者は言っているわけです。
そして次のパート。
ここで1番大切なのは、
「怨みの感情は、怨まれた人だけではなく、怨む人の心身まで蝕み、
幸せから遠ざけてしまう」というところ。
普通に生活している私たちは、いつ何時不条理な罠に嵌り、
予想していなかった苦境に立たされるかわかりません。
事実無根の誹謗中傷を受けてしまうこともあります。
そういったとき、「元凶となった人を怨む」という気持ちが生じるのは、
ごく自然なことともいえるでしょう。
しかし、怨まれた人が幸せから遠ざかるのはともかくとして、
怨んでいる当人が幸せから遠ざかってしまうというのは、残念なこと。
だから、「相手を不幸にしたい」という思いよりも、
「自分は不幸になりたくない」という思いを強く持てばよいのです。
自分が幸せになるために、どうすればいいのか?
それは、誰かを怨みながら生きていくのではなく、
ひたすら自分が気持ちいいと思える考えと行動に基づいて生活すること。
怨む気持ちにとらわれないことが重要だと、著者は言っています。
最後のパート。
ここでは、とても大切なことを言っていますね。
「この世にあるものはすべて自分の思いどおりにできると考える態度こそ、
この世を腐らせている思想の最たるもの」
今回のコロナ騒動も、「そんなふうにはいかないぞ」という、
自然界からのメッセージなのではないか? そんな気がします。
「あらゆる宗教の淵源には、人知を超えた存在への畏れがあります。
この世には、人間にはどうしてもコントロールできない領域のものがある。
だからそれをぜんぶ自分でコントロールできると考えるのは、非常に傲慢なことです」
「畏れを知ること。 これが大事です」
本当に、その通りだな~と思います。
サムシング・グレートでも、神でも、宇宙のパワーでも、何でも良いのです。
とにかく、人間の力ではコントロール不能なことが
世の中にはたくさんあることを認識し、
人知を超えた存在に対して、畏敬の念を抱いて生きること。
それが、私たちが幸せに生きていくためにとても重要なことなのです。
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Last Modified : 2020-06-09